杜父魚文庫ブログ

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「戸石崩れ」の地を歩く 古沢襄
八月になったら信州の一人旅をしようかと考えている。真夏の旅と言われるかもしれないが、高原の信州はそろそろ秋の気配が立つ。朝晩は涼しくて気持ちがいい。

きっかけは「山の詩情 ー静寂の中でー」と題した秋山洋次郎さんの写真集。

あふれる詩情漂う山・燕岳
ずっと遠くの氷河
その山のもつ優雅さは
しみじみ心に染みる
花崗岩からなる群の奇観は
烈日にさらされ
一日一日と
その姿を変えているのだろう

北アルプスを中心とした山の写真集だが、岩手県の沢内村長だった加藤昭男さん(故人)の久子夫人から送って頂いた。長男のお嫁さんの実家(母方)が信州の上田市で、秋山姓だという話は聞いていた。

秋山さんは高校教師をやめた後、お母さんの介護をやりながら、山の写真を撮り歩いて、昨年四月にまとめて写真集を出した。久子夫人からは「秋山家の庭にはたくさんのバラが植えられていて、孫たちはおじいちゃんの家には綺麗なバラ園があるよ、言っております」と添え書きがあった。

秋山洋次郎さんは心優しき人なのであろう。写真や詩から、それが伝わってくる。私と同じ旧制上田中学の卒業生かもしれない。秋山さんの住むところは小県郡神科村といった。昭和三十二年に上田市に編入、上田市上野となっている。

上田市に住む者は北に迫ってくる太郎山をみて過ごす。私の母や従姉は街中から歩いて太郎山の麓にある上田北校という小学校に通ったものである。神科村は東太郎山に位置するが、何といっても有名なのは戸石城の存在であろう。

「真田一族」の著者である小林計一郎氏は「戸石城はいまの上田市街の北東にある山城で、東は神川(かんがわ)にのぞむ崖、西もけわしく、山上は広大で、要害堅固であった」と書いている。この城は信濃一の猛将といわれた村上義清が築いた。

天文十九年(1550)夏、信濃制覇を目指す武田信玄は大軍を率いて戸石城に殺到した。「高白斎記」には「長窪(武田本陣)の陣所の上、辰巳の方に黒雲の中に赤雲立ち、西の雲先なびく」とある。赤雲は凶兆である。無敵の武田軍にも動揺が走った。

攻囲一ヶ月に及んだ武田の戸石城攻めは、秋に入って陣を捨てて撤退することになった。武田軍は横田備中守が討ち死、千余の戦死者を出して、信玄にとって生涯に数少ない敗戦となった。これが有名な「戸石崩れ」である。山頂まで登る体力がないが、東太郎山の山景は写真に納めてきたい。

杜父魚ブログの全記事・索引リスト(7月7日現在2022本)
五輪ツアーに大異変 宮崎正弘
南京空港で貨物に時限爆弾が発見。上海ではサッカー場をターゲットのテロが計画されていた。

多維新聞網などに依れば、23日午前、南京空港の貨物ターミナルでX線検査機は不思議な国際宅配便を発見。開封したところ時限爆弾がセットされていた。

同日、上海では五輪開会式に合わせての上海サッカー場襲撃計画が露見し、未遂グループが拘束された、というニュースがあった。

日本からの五輪ツアーに大異変が起きている。

大手六社が観戦ツアーを募集してきたが、売り切れどころか、ほぼ半分しか埋まらず各社悲鳴をあげているという。或る情報ではJTBだけが、かろうじて目標の三分の二にこぎ着けたそうな。

ダンピングという手も使えない。そもそも四倍ほどのホテル代を、一年前の予約時に先払いさせられている旅行代理店が多いのである。

五輪をあてこんで激増を予測した中国ツアーは年明けと共に正反対で、ホテルも飛行機もガラガラ。

北京の5つ星ホテルで五輪会期中に空室がある。四つ星ホテルは半分も予約が埋まっていない。

日本の大手旅行各社、中国部門を縮小の検討にはいっている。

杜父魚ブログの全記事・索引リスト(7月7日現在2022本)
テロ支援国指定解除の延期も 古沢襄
八月十一日を境にして北朝鮮に対する米国のテロ支援国指定解除が行われる筈だが、この延期説が出ている。土壇場にきて米朝の押し相撲の状態となった。

シンガポ−ルで6カ国協議の非公式外相会合が行われたが、焦点となったのは米国が要求していた核申告の検証手順案に対する北朝鮮の回答。しかし北朝鮮側は明確な態度を示さずに、むしろ見返り支援の履行要求に終始した。

このままだとテロ支援国指定解除だけが食い逃げされる可能性がある。

韓国の朝鮮日報は、この状況下で「ワシントンは検証手順で合意しないかぎり八月十一日に予定されたテロ支援国指定解除は延期されるだろう」と伝えている。盧武鉉政権下では北朝鮮に迎合する傾向が顕著だった韓国は、李明博政権になって厳しい見通しを示す傾向に変わっている。

<米国は北朝鮮が先月提出した核開発プログラムの申告書について、この内容を検証する手続きについて合意が行われない限り、テロ支援国指定解除は行わないとの考えを北朝鮮に伝えたことが、24日に明らかになった。

ワシントンのある有力な消息筋は同日、「北朝鮮が核開発について申告した内容を検証する手続きについて合意が行われない限り、来月11日に実施される予定のテロ支援国指定解除は延期されるだろう」と述べた。

米国の国内法によると、大統領が特定国家に対するテロ支援国指定解除を行うには、45日前にその意思を議会に伝えるよう定められている。そのため先月26日にブッシュ大統領が議会に通知を行った日から45日目となる来月11日、北朝鮮のテロ支援国指定解除が実現するだろうと予想されていた。

しかしブッシュ大統領は当時も、「今後45日間は検証について誠意を示すべき立場にある北朝鮮にとって非常に重要な時期となる。この期間に米国は6カ国協議を通じ、包括的かつ厳格な検証規定を確立する。北朝鮮の行動を綿密に注視し、それに伴って行動を起こすだろう」と述べた。(朝鮮日報)>

杜父魚ブログの全記事・索引リスト(7月7日現在2022本)
国交回復のチョロギ 渡部亮次郎
久しぶりに「チョロギ」を食べた。角館(かくのだて=秋田県仙北市)の安藤醸造さんから戴いた「刻みガッコ」に茶色に漬かって入っていた。日本では東北地方を中心に栽培されている、というが私は北京で初対面だった。それをまた思い出した。

1972(昭和47)年9月25日、田中角栄首相、大平正芳外相、二階堂進官房長官の乗った特別機に特に選ばれた5人の記者の1人として同行。梅原龍三郎画伯描く『北京秋天』そのもの、快晴の北京空港に降り立った。日中国交正常化交渉を見守るためである。

しかし、交渉の様子は全く分からない。日本側同行記者団80人に対する説明者の二階堂官房長官の毎日の発表は「発表できる事はありません」だけ。肝腎の田中首相とは釣魚台の迎賓館の部屋で到着翌日に短時間面会が許されただけで、後は梨のつぶて。

ホテルはソヴィエト人の設計とかで、天井がやたらに高くて、シャワーからは湯がろくに出ない。食事はやたら脂っこくて大抵の記者たちは3日目ぐらいで音を上げた。誰言うとなく出た言葉が「こんな時は粥(かゆ)が食いたいね」

そうしたら翌朝が白粥に漬物。それが「チョロギ」の漬物だった。赤く染まっていた。恥かしい話だが日本では東北地方を中心に栽培されているというのに、初対面が北京でとは妙な成り行きだった。実家は秋田の農家なのに、隣近所でも栽培していなかった。

高さ60cmほどに育ち、6月〜7月頃に薄い青紫の花を咲かせる。10月〜11月頃に根にできる塊茎を収穫し食用とする。 Chinese artichoke‖Japanese artichoke‖Stachys sieboldii Miq.

シソ科の多年草。地下にできる塊茎を食用にする。中国の原産で水湿地を好み、日本には元禄年間(1688‐1704)に入ったらしく《農業全書》に最初の記載がある。

和名は朝鮮を経て入ってきたため、朝鮮語のジロイ(ミミズ)の転訛といわれている。

19世紀になってヨーロッパに、20世紀になってアメリカに入ったといわれる。夏から秋に地下茎が伸び、その先端に径約1.5cmで長さ約3cmの白色で駐質の細長い塊茎をつける。

塊茎には数個の輪状のくびれがある。シソや梅酢に漬けて赤く色をつけ、黒豆に混ぜて正月料理としたり祝儀用に使う。中国では風邪や咳止めにも利用される。平岡達也(世界大百科事典(C)株式会社日立システムアンドサービス)

以下は「ウィキペディア」による。漢字表記は多数ある。塊茎が蚕の姿に似ていることから「草石蚕」と書かれたり、音から「丁呂木」「丁梠木」と書かれたりする。祝い事の際に食べる場合、縁起をかついで「長老木」「長老喜」「長老貴」「千代呂木」などと書かれることもある。

東北地方のほか京都など西の各地でも栽培されている。西日本での収穫期は東北よりもやや遅く、12月頃になる。その形からネジ芋、法螺芋と呼ばれることもある。

塊茎は長さ1〜3cm程度の巻貝のような形をしており、泥を落とすと白い。この塊茎を塩漬けにしたり茹でたりして食べる。ゆり根に似た食感と生姜のようにピリッと辛い味がする。

塩漬けの場合、4〜5日ほど漬けた後に梅酢やシソ酢に漬けて赤い色をつけることが多い。この赤く漬けたチョロギは、正月のおせち料理によく用いられる。おせちではそのまま単品として用いられるほか、黒豆を煮たものに添えて供されることも多い。

その他の調理法としては、天ぷら、吸い物の具などが挙げられる。チョロギは中国からヨーロッパにも伝わり、フランスでも食用とされる。フランスではクリーム煮やサラダとして食べることがある。

フランスでjaponaise(ジャポネーゼ、日本風)と名前に付く料理には、なぜか必ず付け合せにチョロギを盛り付ける。

稀に、チョロギは魚との食いあわせが悪いと言われることがある。「本草綱目」(著者:李時珍)には「徐風破血、下気精神」とあり、外からの病の侵入から身体を守り、血の滞りを治し、気を静め精神を安定させる効果があるとされている。

杜父魚ブログの全記事・索引リスト(7月7日現在2022本)
最初の対韓無償技術供与 hideおじさん
ーーー奥井清澄、明星食品の社長である。彼の真摯な思いが戦後初の韓国への無償技術供与に繋がったことを知る人は少ない。

時は1963年、当時未だ朝鮮戦争の傷跡が残る韓国では、深刻な食糧不足がおとずれていた。街では、残り物で作った韓国粥を求めて列を成す人が溢れていた。

ーーーその姿を見つめていた一人の男がいた。「全仲潤」である。韓国第一生命の社長である全は、腹をすかせて列を作る人々を見て、「安くて美味いものを食わせてやりたい」ーーーそう思った。

当時ふんだんにあるものといったら、国連が援助してくれた小麦だけだった。しかし、日本と同じくパン食になじんでいなかった韓国では、この小麦の有効利用が進んでいなかった。

そこに全は目をつけたのである。

「これで美味いものを作りたい」全は、保険会社の社長という座を捨て、三養食品を立ち上げ食品業界へ飛び込むこととなる。

そのとき彼の目に留まったのが、発明まもない日本のインスタントラーメンであった。ーーーすぐさま日本へ飛び、日清食品を初めラーメンメーカーへ技術提供を願い出たのである。

ところが、高度な技術であるインスタントラーメンの製造を、やすやすと教えてくれる会社などありはしなかった。

ーーーそして全が、最後に訪れたのが明星食品だった。

韓国の窮状を訴え、協力を願い出た全仲潤に、奥井はひと言、「日本は朝鮮戦争の特需で立ち直りました。その恩返しに協力しましょう」

社内からの轟々たる非難をよそに、奥井は格安で製造機器を渡し、技術者までつけて韓国に派遣したのである。ところが、麺の製造技術は提供したが、スープ作りはメーカーごとの秘密のレシピである為提供できなかった。全は試行錯誤するも、ことごとく失敗する――――。

思い余って奥井のもとへ向かうが、彼とて安易に社内秘を教えるわけにはいかない。

失意の中、韓国へ帰ろうとする全のところに、明星食品の技術者が駆け込んできた。

「社長からです」と言って渡されたのが一冊のノートである。

帰りの飛行機の中、そのノートを広げて全は驚いた。ラーメンの命というべきスープのレシピが、こと細かく記載されていたのだ。

全は思わずそのノートを胸に押し抱き、涙したという――――。

その後、インスタントラーメンは韓国の国民食のひとつとなり、屋台でも食べることができるが、そのラーメン一杯には、奥井と全、という二人の男の熱い思いが込められていたことを知る人は少ない――――。

戦前日本の朝鮮統治を、単に侵略、掠奪と言う者、はたまた掠奪するために太らせただけと断罪する日本人は多いが、朝鮮をこよなく愛していた日本人がいたことを知る日本人は少ない。

歴史の表舞台には出てこないが、多くの日本人と朝鮮人の交流の中で「歴史」が作られてきたことも、戦後世代の私たちが伝えていかなければならないことではないのだろうか。 

杜父魚ブログの全記事・索引リスト(7月7日現在2022本)
小さな爆発事故は報道せず 宮崎正弘
北京も上海もバス停の紙くず箱まで爆弾に見える。爆破テロへの恐怖心理が広がり、あの中国人がパニック寸前。

爆弾テロへの恐怖心理がパニック寸前になっている。動じない、ものおじしない中国人でも爆弾テロは恐怖なのだ。

雲南省昆明でのバス爆破テロ以後、中国各地ではバス、鉄道などの警戒がいっそう強まり、駅の紙くず箱にも注意が払われているという。
 
東方日報が伝えるところでは23日上海延安路を走行中の貨物トラックから爆発が起こり、煙と液体の臭い、一瞬爆音と共に炎を十メートルに達したという。

「爆音は三回聞こえ、市民は爆弾テロか、と騒いだ」(多維新聞網、7月24日)。

五輪直前になって昆明のバス爆破、広西チワン自治区での千名の暴動、広東恵州ではデモ隊と警官が衝突し2名が死亡、その迅速は抗議行動の組織化と、規模の拡大に警備陣は、各地で不意を突かれた格好になっている。

北京では436路でバスの中に密封されたボックスが置かれており、突然引火、火災を起こした。これも23日の事件という。
 
これら小さな爆発事故は中国国内では報道されていない模様。

【知道中国 175回】――胆大為妄、或は暴虎馮河・・ 樋泉克夫
この世界で起こる複雑極まりない現象も、存外に簡単な法則の組み合わせで解き明かすことができるようだ。

たとえば慣性の法則、運動の方程式、作用反作用の法則で構成された「運動の三原則」によって、あらゆる運動現象を原理的に説明しきってみせたニュートンのように。

そこでニュートンに倣って、殊に複雑・怪奇・激越・面妖で変転極まりない最近の中国の振る舞いを改めて考え直してみる。

とりたてて小難しいリクツを持ち出さなくてもいい。中華民族主義、大一統、反日の3原則で説明できるだろう。これを総称して愛国無罪。

先ずは中華民族主義。たとえば聖火リレーからオリンピック目前の北京の戒厳体制までは、これでヒト括りできるはず。

スポーツに政治を持ち込むなといったところで、所詮は政治だ。北京オリンピックは我が民族が一切を差配し、中華民族の存在感を全世界にみせつけるための絶好の機会である。ならば民族の面子を潰してやろうなどと妄動する輩の跳梁跋扈を許すわけにはいかない。
豪華絢爛の聖火リレーを妨害するヤツラに対し、こちらから出向き断固懲らしめてどこが悪い。

北京がオリンピックを行うに相応しい安全・安心の古都であることを印象づけるために、万難を排して取り組むぞ。不逞の輩は断固として海外の客の目の届かぬところまで放擲せよ。

こうなったら東京やソウルでのオリンピックが子供騙程度だったことを、北京を戒厳令なき戒厳下の要塞都市と化してでも、断固として世界にみせつけてやる、となる。

次いで中華民族は一つであるべきだという大一統という手前勝手な考えがあればこそ、3月のチベットにおける民族弾圧や少数民族に対する理不尽な仕打ちにみられるような“蛮行”が繰り返されることになる。

香港やマカオでの“慣らし運転”を終えた一国両制を、これから台湾に推し進めようと虎視眈々と狙っている。大一統という民族の聖なる使命の前には、台湾住民の意思などナンボのモンジャイ、なのだ。

最後に反日だが、誰もが昭和に入ってから、ことに昭和6(1931)年9月18日に勃発した満州事変以降の中国大陸における日本軍の行動に原因があるように看做しがち。

たしかに「九・一八」は反日の記号となり、満州を流れる松花江は反日のシンボルとなった。

だが、戦争時の「日本帝国主義打倒」からはじまり、毛沢東時代の全国一斉に一糸乱れず展開された「日本帝国主義復活阻止」を経て昨今の若者によるネット反日まで、これまでみられた一連の反日行動を冷静に振り返ってみる時、そこに侮日・軽日・憎日・恐日・畏日・罵日・嫌日・敬日、時に恋日の意味が込められていることが見て取れるのである。

そもそも歴史的に考えるなら、中国人が自らの不甲斐なさを否も応もなく知らされた日清戦争こそが、両国関係の分水嶺だったような気がしてならない。

負けるはずのない《小日本》に朝鮮半島で完膚なきまでに叩きのめされてしまったことで、東方に浮かぶ「海上の三山」に棲み中華文明の栄に浴すことのない化外の民たる《倭人》に対し持ってきた優越感は吹っ飛んでしまった。以来、《小日本》が屈辱と恐怖のトラウマになってしまった、というわけだ。

いま共産党政権は中華民族主義、大一統、反日の三頭立て馬車で疾駆する。で、行き着く先は・・・天知る地知るも、我知らず。 

杜父魚ブログの全記事・索引リスト(7月7日現在2022本)
シドニーの特殊潜航艇 平井修一
靖国神社「遊就館」の展示品で小生を一番感動させるのは野戦砲である。敵の銃弾によりえぐられた傷があちこちにある。戦いの激しさを物語り、小生は鎮魂の言葉も思い浮かばずに佇むばかりだ。この砲を操作していた兵士は戦死を免れ得なかったろう。

負け戦の傷を癒すには勝ち戦が必要だが、その機会をも奪われた。敗戦国は悲惨である。

戦勝国のアメリカは第2次大戦後はいろいろ戦争をしたが、ベトナム戦争に負けて以来、大局的には冷戦に勝ったとはいえ、個々の戦争ではまったく勝てないでいる。

日本をやっつけたような皆殺し作戦が国際世論の手前できないから、大統領や軍の首脳は忸怩たる思いで、兵士の墓標が増えるのを見続けるしかない。

日本に戦争を仕掛け、アジアでの日本のプレゼンスを駆逐するという愚行のツケを米国は払い続けている。親の祟りが子に報うという、因果応報だ。

「遊就館」の展示で次に感心させられるのは特殊潜航艇である。日本人の器用さがよく表れており、狭いところにびっしりと機械が収納されている。

6年ほど前にシドニー空港で日本の特殊潜航艇を展示していた。初めて見てびっくりしたが、シドニーくんだりまで足を伸ばして攻撃するという、日本人の執念というか熱意には舌を巻く思いだった。

<第2次特別攻撃隊の特殊潜航艇(特潜)は1942(昭和17)年5月、シドニー湾を攻撃。戦闘で海底に沈んだ3隻のうち2隻は、まもなく湾内で引き揚げられた。

特潜の魚雷攻撃で21人の水兵が亡くなったものの、豪海軍は当時、日本兵の勇敢な行動に感銘を受け、丁重に海軍葬を営んだ。不明だった3隻目は昨年11月、沿岸の海底から64年ぶりに見つかった。

ハワイ・真珠湾の特潜攻撃が戦果をあげなかったのに対し、シドニーとアフリカ・ディエゴスワレス(マダガスカル島)に出撃した第2次特別攻撃隊は6割が湾内に侵入し、打撃を与えた>(朝日、2007年08月31日)

小生が見たのは引き揚げられた2隻のうちの1隻だったろう。昨年の夏には豪海軍の主催によりシドニー海軍基地で特殊潜航艇に搭乗して戦死した日本兵の慰霊祭が行われ、元特潜乗組員も遺族らとともに参列したという。勇敢な行為は敵をも感動させるのである。

司馬遼太郎の自虐史観によれば、この行為も特攻隊同様に「愚行」なのだろう。負け犬根性は品性をおとしめ、卑屈にする。昨日、司馬の「韓のくに紀行」を読み、GHQの洗脳の根深さと司馬の後出しジャンケン史観にウンザリしたところでシドニーの特殊潜航艇を思い出したのである。

「敵ながらあっぱれ」と敬意を表する豪州軍人、「愚行」と同胞を罵る司馬。どちらが人間として上等かは明瞭である。

杜父魚ブログの全記事・索引リスト(7月7日現在2022本)
懐かしや鯰の味噌煮 渡部亮次郎
毎度語る旧八郎潟(秋田)だが、ここの産物で一番食べたのは鮒(ふな)で、次が何を隠そう鯰(なまず)であった。

「ナマズ類は、日本では普通の魚とは大きく違った姿をしているために下魚とされてきたが、肉は白身で非常に美味である」と各種事典にある。昔の八郎潟沿岸の家庭では泥臭さを消すために味噌煮にするのが普通だった。

春の田植え、秋の稲刈りの際は、いちいち家に戻るのももどかしいからお櫃(ひつ)の飯に味噌煮にした鯰鍋それに漬物を携え、昼飯は青草の上にそれを広げて食べたものだった。

長じて東京で暮すようになり、八郎潟も干拓で縮ったこともあって高校生以後は鯰にはお目にかかってない。

その後、アメリカ南部を旅した際、若い女性たちがダイエットのために鯰を食べることが流行していると現地の人に聴かされて感心したものだ。鯰は低カロリー多蛋白とのことだった。美人を維持するためには鯰をどうぞ、というわけだ。

だとすれば、鯰を常食したために体格が小ぶりに出来たのも頷ける。恨みは深し八郎潟か。とはいえ、1950年代の身長171センチは長身の方だったが。

数ある北アメリカの種のうちでも、アメリカナマズは食用魚としてごく普通に漁獲されている。ミシシッピ川流域やメキシコ湾岸諸州では、ナマズ類がもっとも重要な漁獲対象魚となっており、中には体重が70kgに及ぶものもある。

とくにブルーキャットフィッシュとチャネルキャットフィッシュの肉はオオクチバスと並んで賞味され、ナマズ漁獲高の大半を占めている。

アジアでナマズは北海道を除く日本、アジア東部に広く分布する。体は細長く、大きな頭部は扁平で、尾部は左右に押し潰したように平たい。全長60cmに達する。

湖沼や河川の流れの緩やかな中下流部に棲み、水生昆虫や小魚、カエルを食べている。長いヒゲには味覚の感覚器である味蕾(みらい)があり、餌(えさ)を探るのに使われる。

また、側線器官に敏感な電気受容器があることも知られており、他の動物の筋肉の電位変化を感じとって採食するらしい。

鯰は日本ではナマズ科、ギギ科、アカザ科、海生のハマギギ科、ゴンズイ科が知られ、沖縄の石垣島にはヒレナマズが台湾から移殖されて生息している。

ナマズ科にはこのほか琵琶湖特産のビワコオオナマズがあり、全長1mに達する。また、琵琶湖とこれにつながる余呉湖にはイワトコナマズがいる。

昔の八郎潟沿岸では水田の灌漑用水路の岸に夕方、竹竿の先に泥鰌をエサにして川岸に挿しておくと朝に鯰が釣れた。兄が随分捕った。4歳下の私も真似したが1匹も釣れなかった。止めた。

地震とナマズの関係については古くからの言い伝えがあるが、実際に地震の前の地電流の変化を感じとっている可能性も否定できない。

かつては蒲鉾の原料とされていたらしいが、食べてみると美味と分かり鍋物や蒲焼になるようだ。刺身用に寄生虫がつかないように養殖された鯰は、「洗い」にして賞味される。

鯰を英名でキャットフィッシュと呼ぶのは、上顎(うわあご)、種によっては下顎の両側から延びている髭がネコを連想させることに由来する。資料:マイクロソフトの辞書「エンカルタ」

杜父魚ブログの全記事・索引リスト(7月7日現在2022本)
東北に大地震が集中 古沢襄
日本列島はこのところ東北にM6クラスの大地震が集中している。岩手・宮城内陸地震は大きな被害を出したが、それ以降も二度の福島沖を震源地とした地震、茨城沖の地震もあった。

24日未明の岩手県沿岸北部を震源とする広域地震はM6・8。安政大地震、関東大震災クラスの大地震だから、東京直下型だったらと思わずにおれない。東大地震研究所の平田直教授は「太平洋プレートが東北地方の下に沈み込んでいるところで起きた地震」とみる。

震源の深さが約120キロ(気象庁は約120キロと速報した後、約108キロと修正)と深い場所で起きたため、広範囲に揺れが広がった。私のところも岩手・宮城内陸地震以来、震度4と思うくらいの揺れ方をした。犬は本能的に地震がくることを予知するらしい。

人間が感得できない地震波が犬には分かる。愛犬バロンは岩手・宮城内陸地震の時も激しく吠えた。地震がくるな、と思っていたら横揺れがきた。24日未明も突然、ベットの上に飛び乗ってきて吠えた。

このところ地震がくると東北自動車道は通行止めとなるが、解除も早い。都市型の高速道と違って架橋型でないから、地割れがなければ通行可能となる。M6・8が東京直下でくれば、こうはいかない。

24日未明の地震被害は、これから明らかになるが、首相官邸の危機対応が早かった。阪神・淡路大震災の時の村山内閣の後手対応と比較すれば、福田内閣の危機対応能力は合格点がつけられる。とかく首相と合わないと更迭論がでる町村官房長官だが、このような危機対応になると行動が素早く安定している。

月内に内閣改造が噂される福田首相だが、今の閣僚を大幅に替える冒険はしないであろう。小幅改造論が噂されている。小幅なら目玉となる改造人事が必要になる。

いろいろ考えて、石橋を叩いて渡る慎重居士の福田さんだが、叩いた末に渡らない可能性は?それはそれで大騒ぎになり、地震波が東北から永田町にくるのだが・・・。

杜父魚ブログの全記事・索引リスト(7月7日現在2022本)
蕎麦談義いろいろ 古沢襄
「霧下そば」というのは蕎麦通では珍重されている。妙高山の山麓は、照りつけたと思う間もなく霧が立ちこめる。日照が強く、霧がまく高冷地なので、そこで作った蕎麦が最高だという。

蕎麦通ではないが”蕎麦好き”の私は「霧下そば」と言われても最初はピンとこなかった。「戸隠そば」だよと言われて納得したものである。「開田そば」のことも指すという。

スーパーで売っている蕎麦のほとんどは国産蕎麦ではなく輸入蕎麦ではないか。あえて蕎麦通と言わないのは、輸入蕎麦であっても打ち方とタレ味が良ければ満足する蕎麦好きだからである。

横浜から茨城に移り住んで16年目を迎えたが、最初に探したのは江戸風の蕎麦屋。それが見つかるまで、わざわざ浅草に出て大黒屋の蕎麦を食べに行っていた。鬼怒川沿いに本店が柏市にある竹藪の支店を見つけた。

その支店が店を閉じたので、代わりに見つけた蕎麦屋に通っていたが、女房が守谷市役所の近くに「江戸そば一筋 そば処蕎山(きょうざん)」の店を見つけてきた。茨城のソバ汁は甘さがあって、濃口醤油の江戸のソバ汁と少し違う。

江戸そば一筋に釣られて、そば処蕎山に女房と行った。スコールのような豪雨が降った日のことである。ようやく江戸風の蕎麦屋を近場で見つけた感じがする。

蕎麦はもともと江戸の庶民の食べ物。いつ頃から持ち歩き屋台形式の蕎麦屋が始まったか定かでないが、店屋で蕎麦を売るようになったのは1700年代の後半だといわれている。しかし武家が蕎麦を食べた記録が見つからない。下賎の風習として上流階層が敬遠したという史料がある。(ウイキペデイア)

このことで面白い話を昨年亡くなった佐々木吉男氏から聞いたことがある。昭和11年(1936)の9月から10月にかけて北海道で陸軍の特別大演習があった。弘前の第八師団第三十一連隊の兵卒で参加した佐々木氏は衛生兵として大隊長の秩父宮少佐と行動をともにした。

皇弟らしくない庶民的で人情味ある上官だった秩父宮に惚れ込んだ佐々木衛生兵は、「北海道は蕎麦の産地であります」と報告した。言ってしまってから大演習なのに余計なことを言ったと身が縮まる思いをした。

大演習が終わって弘前師団に戻ったある日、秩父宮大隊長から佐々木兵卒が呼びだされている。恐るおそる出頭した佐々木兵卒に対して秩父宮少佐は「ソバとは何か!」と聞いてきた。北海道大演習の時のことを秩父宮少佐は覚えていた。

直立不動で「食べれば、分かるであります」と佐々木兵卒。秩父宮少佐は「ソバを食べる」と言って弘前市内に出たという。騎乗の秩父宮少佐を案内役の佐々木兵卒が追いかけた蕎麦話は愉快である。

昭和の御代になっても皇室では蕎麦は知られざる庶民の食べ物。ひょっとしたら秩父宮だけが皇族で蕎麦を食べた最初の人だったのかもしれない。

話ついでに、もう一つ。関西では兵庫県豊岡市出石町の「出石そば」が有名である。この発祥は江戸時代に蕎麦の本場であった信州上田藩の藩主仙石政明が、出石藩に国替えとなった際、大勢の蕎麦職人を連れて行ったという。

こちらの方は江戸のように蕎麦が下賎の風習として上流階層から敬遠されていない。藩主仙石政明が蕎麦を食べてみて、それを新任地の産業振興に役立てたのではなかろうか。

杜父魚ブログの全記事・索引リスト(7月7日現在2022本)