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日本の新聞は再生できるか     加瀬英明
新聞界に王者として君臨してきた、朝日新聞の落日が始まった。

朝日新聞社は8月に、いわゆる従軍慰安婦について、32年間にもわたって読者を騙して、虚偽報道を行ってきたことを認めて、撤回した。社長が逃げ隠れしていたが、何日もたった後に、謝罪記者会見を行った。

私はもう50年にわたって、雑誌の紙上を舞台として、朝日新聞が亡国的な報道を行ってきたことを、攻撃してきた。

昭和50年に、月刊『文芸春秋』に「最近朝日新聞紙学」という題で、27ページにわたる長文の批判を寄稿したところ、朝日新聞社が名誉毀損で、私と文芸春秋社を訴えるといってきた。裁判は望むところだった。

福田恆存氏をはじめ保守派知識人が、私の応援団をつくってくれることになった。ところが、著名な財界人が仲介に入ったために、裁判は実現しなかった。

日本の新聞は先進諸国のなかで、民主社会を脅かす、もっとも遅れた面をつくっている。

欧米の新聞が民衆のなかから生れてきたのに対して、日本の新聞は明治に入って、藩閥政府に不満を持つ武士がつくった。これらの武士はエリート意識が強く、蒙昧な民衆を導くという、使命感に駆られていた。


■日本の新聞の読者に対する目線

今日でも、日本の新聞は誰に頼まれたわけでもないのに、「社会の木鐸」であることを、自負している。欧米では新聞が読者と対等な関係を結んでいるが、日本では読者を上からみる目線で、見降ろしている。

日本の新聞は「これを読め」という態度で、読者に接してきた。32年間にもわたって、虚偽の報道を撤回しなかったのは、読者を大切にしてこなかったからだ。


■欧米紙と日本紙の投書欄は何と違うことか

アメリカや、ヨーロッパの新聞でもっともおもしろい欄は、投書欄だ。その新聞の記事や、論説に対する読者の批判を、率先して掲載している。なかには、辛らつなものもある。

ところが、日本では産経新聞も含めて、投書欄は愚にもかない内容のものばかりで、批判をいっさい受けつけない。

もし、カレントの読者のなかに、朝日新聞を購読されている会員がおいでだったら、孫や、子供に読ませないことを、お勧めしたい。次代の日本人が嘘つきに育ったら、たいへんだ。

今回の朝日新聞社社長による謝罪記者会見が、日本国民の目を覚ますきっかけとなることを、期待したい。

■聖書から学ぶこと

私はキリスト教信者ではないが、旧約、新約聖書に親しんできた。

新約聖書の『ヨハネの福音書』のなかに、妙に気にかかる言葉がでてくる。キリストの「私が来たのは、彼らがいのちを得、またそれを豊かに持つためです」(10―10)という言葉だ。

いったい、英語ではどういうのか、英語の聖書をあたってみた。I have come that men may have life and may have it in all its fullness.と、なっていた。

しばらく後に、ドイツ語の聖書もめくってみた。Ich bin gekommen, damit sie Leben haben und es in Fülle haben. とあった。

これは、キリストの言葉のなかでも、有名なものだ。

■生きる心と生かされる違い

キリストがやって来たことによって、人間が罪から解き放されたので、生き生きと生きることができるという、痛烈な叫びである。

英語や、ドイツ語で読むと、人間は眠っていないで、生命力の限りにいっぱいに生きろという、血が滾(たぎ)るような響きがある。ところが、日本語になると、このように燃えるようなところがない。どうも弱々しいのだ。

英語とドイツ語とでは、人間が生命(いのち)を持つというのは、have it / Leben habenであるのに対して、日本語では「それを‥‥持つため」といって、生命を持つというよりは、「持たされている」という感じが、強い。

英語やドイツ語であると、個人が生命を持つのに、日本語では共有のものを持たされているようなのだ。

■自己意志の表現の力

I haveというと、きわめて強い。「持つ」対象となっている物にも、「私」の強い執着がこめられている。そして、自分の行為まで持つことができる。I have comeとI came、I have seen、I sawとでは、同じ「私は来た」と「私は見た」のであっても、強さがちがうものだ。

■自己存在と所有価値との接点

日本語で「私は鉛筆を持っている」といっても、鉛筆があたかも共有物であって、私が預かっているようにきこえる。自分だけの鉛筆だ、という叫びがない。

「私は金を持っている」「傘を持っている」といっても、共有物である金を、一時、預かっているような感じが強い。I have moneyとか、my umbrellaというより、弱い。

日本人の生活のなかから、haveが欠落してしまっているように思える。それだけ、自我が希薄なのだろう。

日本では、ほんとうは不十分なものであるのに、そのものにあたかも大きな力が備わって、権威があるかのように、まわりから作り上げてしまうことが、しばしばみられる。戦前、戦時中の神国思想や、軍国主義のように、まったく得体の知れないようなものが、コンセンサスとして権威をふるって、横行する。

日本では、人々が得体が知れないものに、寄りかかりやすい。

■“暗愚な帝王”と“暗愚な新聞”

私たち日本人には、どこか無意識に満場一致を求める心情が、働いている。コンセンサスに従おうとする力が、強く働いている。

このようなことは、ほとんどの日本人が成熟した自己を持っていないことから、起ると思う。大多数の日本人が不十分な、中途半端な自我形成しか、行われていない。多くの日本人にとって、自我の中心が自分のなかにあるよりも、集団のなかにある。

自分を1人ぼっちの人間として、意識することがなく、自分が属している集団の部分としてみる。しっかりした自分を、確立することがない。そのために、得体が知れないコンセンサスによって、支配されてしまうことになる。

日本では、首相にせよ、大企業の社長にせよ、周囲が作ることが多い。本人が自分の力によって、その地位を勝ち取るよりも、まわりがそのように作るということが、みられる。集団が中心を探り合ううちに、その人にコンセンサスの中心としての役割が、与えられる。

かつて、鈴木善幸首相がそう呼ばれたが、宇野宗佑首相や、鳩山由紀夫首相や、菅直人首相のような“暗愚な帝王”が担がれることが、起こる。


朝日新聞が擁護してきた日本国憲法が、よい例だ。日本国憲法は「暗愚な憲法」なのだ。日本国憲法は、今日の世界の現実にまったくそぐわないものと、なっている。

人間生活では、あらゆるものが相対的であって、流動しているために、人が状況に合わせてゆかねばならないはずである。

憲法も道具の1つであり、人間生活の手段であって、目的となってはならない。道路交通法と同じような、生活の道具だ。道交法を時代にかなうように、しばしば改めなければならないのと、同じことだ。

現行憲法を墨守するのは、中世的で不合理な不動の宇宙観を、持っているのに均しい。

日本人はなぜ動かない物に対して、憧れを持つのだろうか。いったん、怪しげなコンセンサスが固定化してしまうと、全員が寄りかかってしまうために、壊すことがきわめて困難になる。

朝日新聞は戦後の自虐史観を支えてきたが、「暗愚な新聞」であってきただけではなく、日本の国家としての存立を、脆いものとしてきた。

日本の新聞は、反社会勢力であってきた。“木鐸”という気取りを、捨ててほしい。


杜父魚文庫
| 加瀬英明 | 00:59 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |







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