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ミッドウェー海戦 大ざっぱな作戦、同じ過ちの繰り返し   古沢襄

■「負けるべくして負けた」連合艦隊


昭和17年6月4日(日本時間は5日)、ミッドウェー島攻略に向かった南雲機動部隊は2度にわたる兵装転換に手間取る間にアメリカの先制攻撃を受け、3隻の空母を失う。


予想外の結果に衝撃を受ける連合艦隊だったが、そんな中でアメリカの攻撃を免れた唯一の空母「飛龍」の攻撃隊が一矢報いようと、アメリカ機動部隊にめがけて飛び立っていった。


■「飛龍」の反撃


機動部隊旗艦「赤城」など3空母がアメリカ機の攻撃を受けて炎上したため、司令長官の南雲忠一中将は軽巡洋艦「長良」に移る。


それを受け、被害を受けなかった「飛龍」に乗る第二航空戦隊司令官、山口多聞少将は「われ、航空戦の指揮をとる」と宣言、報復戦へ挑むことになった。


これまでに目撃したアメリカ空母は1隻だが、攻撃隊の機数から見て複数の空母が存在するとみた山口少将はすかさず、午前11時に零戦6機と99式艦上爆撃機(艦爆)18機からなる第1次攻撃隊を発進させた。


うまくいけば帰還した攻撃隊を収容中のアメリカ空母を同時攻撃できると踏んだからだろう。目標は索敵機から報告のあったエンタープライズ型空母のいる海域。だが、その空母が2カ月前の珊瑚海(さんごかい)海戦で沈めたはずの「ヨークタウン」だった。


午前11時50分、「ヨークタウン」のレーダーが南西80キロに日本の攻撃隊の姿をとらえた。すぐに輪形陣をとると護衛の戦闘機を発艦させた。本来は3カ月かかる修理を3日で終わらせているため、どうしても防御力に問題があったのだ。


フランク・J・フレッチャー少将ら第17任務部隊の面々からすれば、あと数分後に現れるはずの日本の攻撃機を待つ時間がいつになく長く感じられたことだろう。


まもなく雲間から飛行機の編隊が迫ってきた。11時55分だった。すぐに戦闘機同士による空中戦が始まった。絡みに絡む両軍の戦闘機。その合間を縫うように99艦爆が「ヨークタウン」に迫るが、対空砲に撃墜される。


それでもくぐり抜けてきた8機の艦爆が急降下で落とした爆弾3発が命中。うち1発がボイラーを破壊した。このため火災を起こして機関が停止する。猛煙をあげる「ヨークタウン」。


これを見た第1次攻撃隊は「エンタープライズ型空母1隻を撃沈」と機動部隊に報告した。


■不屈の空母「ヨークタウン」


山口少将は第1次攻撃隊を収容する直前の午後1時半、友永丈市大尉指揮による零戦6機、97式艦上攻撃機(艦攻)からなる第2次攻撃隊を発艦させる。


この後の索敵機からの報告でアメリカ空母が3隻と確認されたため、残るは2隻と判断する。午後2時40分、別のエンタープライズ型空母に第2次攻撃隊が襲いかかった。


ところが、これも「ヨークタウン」だった。一見無傷のようだが復旧作業後に火災は鎮圧し、速力も20ノットが出るまでに回復していたのだ。挟み撃つように雷撃して2本が命中すると艦は傾き機関が停止したため、攻撃隊はここでも「撃沈」と報告する。
 

それにしても多くのパイロットを失った。隊長の友永大尉は、ミッドウェー島空襲のときの被弾で片翼タンクにしか燃料を詰めることができない覚悟の出撃だった。魚雷の投下後に対空砲で炎上し、「ヨークタウン」の艦橋に突っ込んだといわれている。


一方、アメリカ側もこの間に「ヨークタウン」から出た索敵機が「飛龍」を発見する。「エンタープライズ」「ホーネット」の第16任務部隊から130キロという至近距離だった。


このため、第16任務部隊司令官のレイモンド・A・スプルーアンス少将は午後4時前後に計40機を相次いで発進させている。これが2隻に残っていたすべての艦載機だった。
 

山口少将も第2次攻撃隊収容後の午後6時を待って“残る1隻”への攻撃を命じる。このとき「飛龍」に残された戦力は、零戦が6機、艦爆が4機、艦攻が4機の計14機だけだった。


だが、このとき搭乗員や乗組員は度重なる戦いで極度の疲労に襲われていたものの、「1対1の戦い。必ず沈めてやる」とやる気いっぱいだった。


■命運は尽き…


だが午後5時過ぎ、「飛龍」の上空にいた零戦を振り切った米軍機が急降下してきた。「直上に敵機!!」の声にすかさず、「撃ち方始め」のラッパを鳴らし、対空砲で応戦したものの間に合わなかった。


数分後、甲板に爆弾が4発命中し、エレベーターが破壊され火災が発生した。黒煙をあげる「飛龍」。艦長の加来止男大佐は消火を命じるが消火装置が破壊されて、対応できない。


機関もしばらくは稼働したため護衛の艦船と戦場を離れようともしたが、火災が広がり停止する。ここで命運尽きたとみた加来大佐は山口少将に了解を得た後の5日午前3時15分、総員退艦を命じた。


その後、駆逐艦の魚雷で処分されるが、「飛龍」はなかなか沈まなかった。処分から数時間後、上空を通った飛行機の搭乗員は漂流中の姿と甲板上に複数の人影を確認する。


これを聞いた南雲中将は救援を差し向けたが、姿はなかったという。5日午前9時ごろに沈没したとみられている。


「ヨークタウン」も傾きながら洋上を漂った。一度は見捨てたが、漂流を続けたために再調査をしたところ再生可能と判断されたことから、真珠湾まで曳航(えいこう)することになった。その時だった。


左舷に2度の爆発音と水柱が上がり艦は大きく揺れた。海中にいた日本海軍の潜水艦「イ168」の魚雷が命中したのだ。その姿は静かに海中に消えていったという。


何度も手傷を負いながらその度に立ち直り、戦い続けた不屈の空母の最期の瞬間だった。
     


日本海軍は空母4隻を失った後、「大和」などによる反撃の機会をうかがっていたが、「炎上するアメリカ空母の後方にさらに4隻の空母発見」などと、索敵機からの報告を受けて断念する。


「これほどの戦力を持っていたなんて…」と驚くと同時に、制空権ない中での上陸作戦遂行に危険性を感じたのだ。


また反転のさなか、重巡洋艦「最上(もがみ)」と「三隈(みくま)」の衝突事故も発生。この影響で速力が低下した2隻はアメリカ機の攻撃を受けてることになり、「最上」はかろうじて逃れたが「三隈」が沈むという失態もおかしている。


作戦当初は大戦力を背景に負ける気がしなかった日本軍に対し、何とか戦力をかき集めるが、「決して冒険をするな」と苦戦覚悟のアメリカ軍−という構図だった。


しかし日本は綿密な作戦を立てることなく、セイロン沖での兵装転換のタイミングや珊瑚海での艦隊間の連係・連絡の悪さ、索敵での情報の精度不足、戦力分散といった同じ過ちを繰り返し、負けるべくして負けたのである。(産経)

 
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| 古澤襄 | 18:01 | comments(1) | trackbacks(0) | pookmark |







コメント
30年前、行きつけのスナックで懇意になった人が空母「赤城」の索敵機搭乗員。歴史の当事者。索敵から戻ったときには空母「飛龍」のみ奮戦中。母艦を失った我友軍機が次々と燃料切れで海上に着水。その光景は見るに忍びなかったそうです。ご本人は事実の隠蔽のため帰国できず、ベトナムに終戦まで留められて生き残りました。町内には未だその様な人がいた。
| momo | 2015/07/31 7:17 PM |
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