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インドネシア独立を支援した皇軍 平井修一
岩間弘氏が著書「大東亜解放戦争」のなかでインドネシア訪問記をつづっている。「いい話」を独占しては罰が当たる。大いに広めるべきだろうと、長くなるが以下、転載する。

平成11年8月13日、私は中島慎三郎氏(アセアンセンター)が案内役で中村粲教授が代表というインドネシア独立記念日に参加することを主目的とする旅に縁あって参加させていただいた・・・

我々12名は正式に独立式典に招待されていて、全員の椅子がテントの中に用意されていたのであった。これは大変光栄なことで、インドネシアの人々がいかに親日的であるか、何よりも大東亜戦争によって、日本がオランダ軍を追放したこと、また、その後の独立戦争のときに、残留日本軍人2000人の協力によって独立戦争に勝つことができたことを深く感謝している証拠であった。

式典は数千人の人々の熱気の中に進められた。54年前の独立宣言を再現する場面では、扮するところのスカルノが「ムルディカ!」(独立!)と叫ぶと参列者全員が「ムルディカ!」と叫び、「ムルディカ!」「ムルディカ!」と繰り返されて式典は最高潮に達した。

盛大な式典が終わると、当時の義勇兵PETA(ペタ)の格好をして、ほとんど日本兵を真似ているので、日本兵そっくりさんの戦闘帽に、軍服、脚絆、軍刀という姿で、我々日本人に寄って来て握手、握手で写真を一緒にとって喜んでくれた・・・

カリバタの英雄墓地について述べてみたい・・・終戦後も日本に帰らずにインドネシアの独立戦争に参加し、戦争体験のまったくないインドネシアの青年に戦闘の方法、武器の取扱と修理などを教え、戦闘のときは先頭に立ったために戦死した方々の墓が17柱。日本名をどうしても使わぬと頑張り、インドネシア人になりきって戦死した兵士を含めると、この墓地では70柱という・・・

残留兵は約2000人で、その中の半分が戦死し、独立を達成したあと何百人かが帰国し、現在(平成11年)の生存者は約40人で、いずれも75歳以上である・・・

西のスマトラ島にあるブキチンギの「日本人の穴」について語らなければならない・・・実に不思議なめぐり合わせによって・・・戦時中、第25軍直属の貨物廠で人夫頭だったライスさんとめぐり合ったのである・・・その時ライスさんが話してくれたのは大体次の様なことだった・・・

「日本軍がシンガポールを陥落させると、オランダ人は何百年も威張っていたのに、強風を食らった木の葉のように飛び去った。オランダ人も驚いただろうが、我々も日本軍のものすごい威力に驚いた」

「ジャワに上陸した日本軍は9日間でオランダ軍を粉砕した。我々は350年間に何度もオランダ人と戦ったが追放することはできなかった。日本軍が大東亜戦争を敢行しなかったならインドネシアは今でもオランダの植民地であったことは間違いない」(引用終わり)

インドネシアの高校教科書にはこうある。

原住民階級が日本と協調するということは、新しい変革と思われた。なぜなら、原住民階級を最下層に置く差別的なオランダ植民地時代では起きなかったことだからだ。反オランダの感情はますます強くなった。

新しい価値観が青年層へ植え付けられた。その中でもっとも重要なものはseisyin(精神)であった。精神とは、第一に武士道精神であった。つまり、主君と指導者、そして親への忠節であった。規律意識もまた植え付けられた。そして劣等感や隷属感は一掃された。やがてその後、これらの価値観は独立達成の戦いの中で重要な資質となったのだ。

「大日本帝国バンザイ!」と小生は叫びたい気分である。

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