台湾代表の齋藤氏更迭は日本外交の敗北? 宮崎正弘
台湾の日本代表=齋藤氏更迭は日本外交の敗北ではないのか?今井新代表は「宮本北京大使の同級生」だから「日本は台湾重視」だって・・・。
8日付け各紙は駐台湾日本代表(交流協会代表=事実上の日本大使)が齋藤正樹氏から今井正氏に交代することを論評抜きで報じている。
背景にあるのは五月に齋藤代表が嘉義大学でおこなわれたシンポジウムの席上「台湾の国際的地位は未定」と日本政府の所見をのべたことに対して、馬英九総統が強く反発し、面会拒否を続けたことによる。暗黙の大使更迭要求ともとれた。
台湾は日本がサンフランシスコ講和条約で放棄したが、帰属は未定であり、現在の中華民国なる存在は国際法上、合法性はない。
蒋介石が台湾へ逃げ込んだあとに「中華民国」の領土として既成事実化したもの。つまり日本の外交解釈に厳密に従えば、齋藤代表の見解が正しいのである。
ところが日本外務省はなんと馬の暗黙の辞任要求に屈服するかのように、齋藤氏の更迭をきめ、新しい台湾代表に今井正(前沖縄担当大使)を送り込むことを内定、すでに12月2日の時点で台湾各紙が伝えていた。
曰く「今井氏は宮本雄二駐北京大使の同期生であり、いかに日本が台湾を重視しているかの現れである。たしかに今井氏は両岸関係に詳しくないが、日台関係の修復に前向きであり、日本の高層の台湾重視を反映している。なぜなら今井氏はイスラエル、マレーシア大使を歴任し、南アジア通だから」(連合報、12月5日)。
曰く。「齋藤代表の“離任”は日本の善意の現れ。過去十年きわめて友好的だった日台関係が停滞する失言をなした齋藤氏にかわって今井氏が台湾に赴任するのは日本が正常化をのぞむ証拠である」(中国時報、12月3日付け)。
こうした解釈は“お笑い草”と言って良いだろう。
筆者が十月に北京に滞在した折、何人かの事情通に聞くと、宮本大使の現地での評判は最悪に近かった。そんなことより、台湾が北京におもねっている心理が見え隠れする論評、この分析は台湾が北京に遜っている心理を如実に物語る。
また同時に日本の外務省が台湾の要求を呑んだことは、外交的敗北ではないのか?
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(読者の声1)いま出ている『正論』1月号の巻頭に掲載された金美齢氏の慟哭の一文『私はなぜ日本国民となったのか』を手にとり目頭が熱くなりました。理知的な筆致ですが、激しい情動を抑えて筆が運ばれています。
本年9月日本に帰化した気持ちを切々と綴った文脈を追いながら、この一文は読者よりも誰よりも亡き夫周英明氏に宛てられ捧げられていると感得しました。その掉尾に次のようにあります。
周英明が愛し、終生その行く末を気にした台湾と日本の二つの祖国。「中華民国には近寄りたくない。嫌だ」と言った彼は、日本人として最前線に立つことに決めた私と、きっと同じ道を歩んでくれたに違いない。
言うまでもなく周英明氏がもっとも愛したのは金美齢氏です。金氏は周氏に「生前同様私の行動を見守っていてほしい。同じ道を歩きましょう」と呼び掛けているのです。金氏は、台湾が無念にも国民党の馬英九政権のもとで中国のブラックホールに吸い込まれるポイント・オブ・ノーリターンを過ぎてしまい、今こそ日本が最前線に立った、だから日本に帰化したと述べています。戦前、金氏も周氏も日本人でした。
戦後中華民国籍となりましたが、蒋介石政権の横暴非道に怒り、中華民国籍を棄て、反政府運動に挺身しました。
蒋経国の死亡で副総統から総統となった李登輝氏は、直接選挙による台湾国民の信任を経て、実に巧みに民主化と台湾化を進め、反政府運動をしていた人々の名誉を回復し帰国を許しました。
本省人の陳水扁が李氏の後を襲うに至って、台湾が台湾人の台湾人による台湾人のための民主主義国家となる可能性が高まりました。
しかし陳水扁の経済政策の失敗から台湾の民意は外省人(中国人)のためだけにある国民党を選択し、その選択は金美齢氏に故国が台湾人の自決国家となることの不可能性を悟らせたのでした。
それは‘90年代から2000年代前半にかけて台湾に射していた台湾人による自治政府実現への燭光が消え失せた瞬間でした。もうその光は二度と戻ってこないことを金氏は一人孤独に悟ったのでした。
ことしの「憂国忌」で西部邁氏は日本人への絶望感を三島由紀夫に託して、以下のように熱く語っていました。あの時、三島は本当に絶望していたのではないのか。何に絶望していたかというと、本当は日本人に絶望していたんじゃないのか。
あれからもう39年経った。日本にまったく希望が無いとは言わないが、39年経ったというすさまじい時間の持続を考えたら、我々がどれほど深々と砂漠の中に足を突っ込んでいるかを考えたら、そこでなお且つ物を言うとしたら、日本人にはほとんど一切希望を持つことはできないと言い、この社会はどうしようもない大脳震盪を起こし、周章狼狽、呆然自失に陥るだろうと、にこやかに言う。ある程度の覚悟と認識をもって、ある程度責任ある行動をとろうとするなら、ほぼ負けを覚悟してでないとできない。
頑張ればいいことがあるだろうなんて生易しい状況ではない。負けを覚悟しなければ物を言う気がしない。勝つだろうなんて希望は何処にもない。事態はそこまで来ている。
金美齢氏の心中は、まさにこの西部氏の慨嘆の「三島」を「金美齢」に、「日本人」を「台湾人」に置き換えたものでしょう。金氏のすさまじさは、三島由紀夫同様、実際に行動を起こしたことです。台湾人として被っていた殻が腐り始めたと見るや、すぐさまその殻を自ら切り裂いて、「最前線」と見なした日本に帰化したのです。
深い絶望の淵に虚しく遊弋することを肯んじ得ず、「なんの希望もない」と思いながらも老躯に鞭打って(失礼!)、果敢な行動に打って出たのです。その心根は若武者のように雄々しく直勁です。
金氏の悲痛な慟哭の叫びが台湾に届いたかのように、貴速報(貴誌、12月8日付け)の通り、彼の地の統一地方選挙で民進党は実質的な勝利を得て頽勢を止め、一方国民党の地盤は崩落しボスの馬は支持率を急落させました。
つらつら彼我の状況を見て思い巡らしますと、「最前線」と位置付けられた日本こそ、「金美齢」なる人物が現れなければ台湾より先に熔けてしまい、その歴史、文化、伝統を失ってしまいそうです。(有楽生)
(宮崎正弘のコメント)先週末、台湾で蔡昆燦氏にお目にかかりました。席上、上のことに言及され、「哀しいな」の一言が感想でした。小生の金さんの著作への書評は下記にあります。
http://miyazaki.xii.jp/column/index.html
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(読者の声2)台湾政治情況、よく分かります。
ところで馬英九総統は選挙前から激ヤセとのことですが、その昔、川島正二郎が「やはり野に置け蓮華草」と荒船清十郎を称しておりましたが、所詮は「英語秘書」なのでしょうか。
それにしても二重苦三重苦であるはずなのに我がハトポッポは痩せた様子すら感じられませんが、鈍感、図太い、無恥、無関心、無責任・・・。嗚呼、形容詞なし。(KH生、埼玉)
(宮崎正弘のコメント)蒋経国の通訳だった馬英九にしてみれば、相手の言葉の勢いなどからも繊細なニュアンスをかぎ取る能力がある筈ですね。
ところで馬総統、あの痩せ方は異常です。一説に11キロ痩せた由です。そうそう、小生、台湾滞在中、日本の各紙の論説委員も台北に来ていました。8日の各紙(日経、産経、読売)の馬英九会見記が、それですね。
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(読者の声3)台湾「聯合報」(12月7日)の世論調査で蔡英文の満意度が43%、馬英九が33%と初めて逆転した、と伝えています。
国民党敗北は44%が党中央の執政なまずさ、政策の不適切、そして馬英九への不満が原因と答えていました。それでも馬英九は「選挙の結果、国民党の大陸政策は国民多数の支持を得た」と称して、ECFA調印など予定通り進めると発言しています。無能というより無知、白痴です。(KS生、在台湾)
(宮崎正弘のコメント)月末に北京から陳雲林が再度、台湾を訪問するようですが、またもや流血騒ぎになりそうですね。馬のすすめる統一市場、自由貿易協定に国民の多くが反対しているのですから。
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(読者の声4)台湾の県知事選挙は民進党が一増とは云え、得票数が大きく伸びていますので台湾人が目覚めだしたのではないか、と大いなる喜びを感じています。
台湾の知人も得票数は半分まで快復した、と喜びの電話を寄越してきました。
ともかく良心を持ち、和歌が詠める日本人と台湾人は『左脳思考』、和歌が詠めないで「欲望最高、道徳最低」の『右脳思考』のシナ人とは、所詮『水と油』で交じり合えない仲です。
早く政権を奪取しないと台湾人の未来はない、等と台湾人の更なる奮起を促しています。(北九州素浪人)
(宮崎正弘のコメント)一言で可能性を言えば、国民党の本土派と外省人派閥との分裂がキィでしょう。舞台裏の動きはあるようですが。。。
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(読者の声5)「日本を防衛するもの」。日本を何で防衛するかですが、私はすでに核での防衛は無理と思っています。では代替は何か。もっとも現在可能性が高いのは「円」だと思います。
アメリカドルは英・独金融軍事独裁主義者に乗っ取られて衰退したここ20年は「価値を維持しないとこちらも大変だ」というマイナス価値・鞭で支えられた世界通貨でした。これが崩壊し、世界通貨は混乱中の様子。ではユーロか?
世界はアメリカを滅ぼしつつあるのが元々はユーロ経済圏の世界支配パラノイヤだということを知っているので、いまさらユーロを全面的に信頼する気にはなれない。二酸化炭素排出権などという食えないルールで再び世界を牛耳ろうとする胡散臭さを世界は信用していない。百歩譲っても、二酸化炭素排出抑制は地球温暖化対策ではなく、地球環境保全対策とすべきでしょう。
原子力についても議論はオープンにすべきでしょう。アメリカを滅ぼして、次に中国に寄生しようとしているのはもともとユーロ圏がコアとしてもっている独裁・植民地主義症候群ではないのか。
では元か?中国はアフリカで失敗。日本人はアフリカ行くならサッカーチームのサムライブルーを着ていかないと、極悪中国人と間違われるとのこと。お金や暴力装置を中学生に預けたみたいなもので、怖くて元などまだ信用できない。
元が成人(元服・あるいは元が世界にとって福となる元福時代)となるまでにはまだ時間がかかると思います。とすると残るのは「円」。アメリカに寄生されて収奪されつづけたにも係わらず、生き残ってきた円。幸いにも対外的暴力装置を持てず、法治主義を貫き、通貨のデノミネーションを世界史に登場以来実施していないのは「円」だけではないかと思いますが、諸賢の情報をご教授願います。
これは、一度出した製品はユーザーが使い続けるかぎりメンテナンスするという日本の企業風土と一致しています。日本はお金ではなく、信用を大切する国です。 では円の価値を何で支えるのか?
金か?軍事か?もともと通貨とは信用という共同幻想ないし共同ルールで支えられるものです。この実体のない「信用」なるものを実体のある何物かによって代替しようとするのがそもそもの間違いではないか。
通貨バスケット、重要資源バスケットが有力となっている。これもありかとは思う。確かにモノよりはマルチのほうが安定する。であれば、と私は思う。
日本企業がかかわっている商品すべてに円での価格表示をつけたらどうなるのでしょうか? 日本に持ち込めば、その価格で流通することが原則。物々交換もその円レートで交換する。円表示するすべての商品価値でもって、すべての商品価値を保証する(0=∞)。と、素人は妄想しています。
日本を防衛するもの、それは核でもドル保有の桎梏でもなく、円表示の商品を優れた商品として作り続ける円経済圏の信用性ではないか。日本を防衛するもの、それは「円」ではないのでしょうか。
日本を防衛しようとするならば、日本国民は総力を挙げて、使用価値の高い商品を作り続ければよい。まずは国内で通用する信用力を獲得した商品しか海外には出さない(これは免疫と同じシステムです。胸腺内部での厳しいチェックを経た免疫細胞しか体全体には出てゆけない免疫システムを生命体は確立しています)。
あるいは、使用価値の高い商品を世界から買い続ければよい。お互いに核の先制攻撃はしないという個別条約を結んだ国としか交易しない。日本の優れた商品が欲しければ、条約締結せよ、というルール。別に日本はお宅に買ってもらわなくても世界にユーザーはたくさんいますから(持たないと怖い鞭のごときドルではなく、持たないと損をする飴のごとき円。手放したいという度に総理や大臣が不審死する蠍の尾のごとき鞭ドルなどもうコリゴリ。ドル国債は中国同様軍事秘密技術とバーターにでもしない限り価値なし。金融軍事の寡占の膿をださないとアメリカは復活できない。
ただし日本が要求するのは軍事技術の民生化。中国みたいに裏取引できませんから)。諸賢のご批判をお願いします。(アシカビヒコ)
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(読者の声6)貴誌通巻2792号にあった渡辺氏著『日本開国』(草思社)にあった書評を大変興味深く読ませていただきました。
これは絶対に読まねばならぬ本であると思い早速購入しました。なぜかというと、書評に紹介されていた渡辺氏の結論が、私には全く納得のいかないものだったからです。
ペリー来航に前後して日本で起きたことで、以前から気になっていながら放っていたことがあり、この際調べて確認せねばと思いました。
しかしその前にこの本を読んで見ねばと思い読み終わりましたが、やはりその本の書かれていたことでは私の気がかりは解決がつかず、むしろ渡辺氏の論、帰結に対する懐疑が強くなってきました。
(1)ペリーが日本を訪れた目的は日本を対シナ通商の前進基地とすることであった。
(2)米国は、英国との対シナ通商競争に勝つために前進基地を必要としていた。
その気になっていたこととは山下喜斎と石油に関することです。これは、以前宮崎正弘氏のメルマガの読者の声に「ST生、神奈川」氏が江戸時代の日本での石油利用に関して書かれたことがありました。その内容に補足して以下に記します。
(1)日本書紀に天智7年(西暦668年)新潟地方から「燃ゆる水」「燃ゆる土」が朝廷に献上されたとあります。この「燃ゆる水」は石油、「燃ゆる土」は天然アスファルトのことだと推定されています。
おそらく英語でいうseep oilという掘らなくても地面から湧き出て、水溜りにアスファルト状のものとともに原油が溜まっているところが新潟にあったのでしょう。これを江戸時代には「くそうず」つまり臭い水とよんでいました。
(2)慶長13年(1608年)には、越後柄目木村(現在の新潟市秋葉区内)の真柄仁兵衛貞賢という人物が、油田を発見し、慶長18年(1613年)には蘭引(らんびき)で灯油をつくったという記録があります。
新発田藩の許可を得て元和元年(1615年)には、油井をうがちこれを沸壺(にいつぼ)と読んだとあります。この油井は明治30年頃まで盛んに石油を出していたそうです。
ところで、「蘭引」の語源はアラビア語の「アランビック」だといわれています。アランビックは蒸留酒や錬金術に用いられた蒸留器のことでした。それが江戸時代に日本に伝わって、水を蒸留して薬用に使ったり、酒類の製造や花の抽出液を取り出して化粧水をつくったりするのに用いられました。
(3) 嘉永3年(1950年)頃に、新潟の蘭方医山下喜斎が原油から灯油を製造し、薬用として使ったとつたえられています。
(4)西村毅一氏が蘭方医山下喜斎の指導の下石油精製に成功し、嘉永5年(1852年)に柏原近くの半田村の阿部新左衛門氏(西村氏の兄)の土地に石油精製所を造りました。
ところが、この日本における石油利用の歴史は欧米では無視されているようです。欧米で認知されている近代の(古代メソポタミア文明等の石油利用は除く)石油利用は以下のとおりです。
(1)1847年に瀝青という石炭の一種から滲み出た原油から灯油を作る技術が英国で技師ジェイムズ・ヤング氏によって開発され、翌年特許をとり、この技術が米国に伝わりました。(渡辺氏の本では1850年に米国で特許取得とあります)。
灯油をベースにした照明、暖房の鯨油に対する優位性が知られました。
(2)ポーランドでLukasiewicz氏が灯油ランプの発明(1853年)し、精油法を開発し精油所を建設(1954年)しました。これが、西洋では世界初の近代的石油精製所といわれているものです。
(3)ルーマニアのPloestiで世界で初の大規模な石油精製所が米国資本の投資によって、1856年に建造されました。
この論を書き進めるうちにペリーの艦隊の蒸気船であるサスケハナ号の名前のもとになった、サスケハナ川のほとりに住んでいた頃を懐かしく思い出しました。Tristate Areaと呼ばれるニューヨーク州、ペンシルバニア州、オハイオ州の境の地域です。
その時代の日々が今の私の中に生きているように、西村毅一氏が半田村に造った世界初の石油精製所は、有為曲折経てを現在の柏崎製油所となり、Ignacy Lukasiewicz氏がポーランドに造った製油所は大成功し、氏は当時のポーランドで著名な慈善家として知られていました。
ルーマニアに米国資本により造られた製油所は、その後大発展し第二次大戦では、ドイツ軍と連合軍の間で争奪戦が繰り広げられました。19世紀末から20世紀の欧米を動かしてきた主軸は石油を巡るグレートゲームとも言えるように思います。
さらに20世紀後半から21世紀においても少なくとも当面は世界を動かしている主軸ともいえます。その大きな流れの鍵を開けたのが、謎の蘭方医・山下喜斎であり、そこから生まれた世界初の石油精製工場でした。
その技術の存在が長崎出島を通して米国に知られ目ざとい人の眼を日本に向けさせ、さらにポーランドのLukasiewicz氏がそれからヒントを得て自身も石油精製工場を造ったとのかもしれないと思えてきます。
だからこそ、無視せざるを得ないのかもしれません。しかし、証拠を見つけ出すことはたとえ真実であったとしても非常に難しいことでしょう。
ルーマニアでの製油所建設にいたるまでと猛烈な勢いで進んでいったということの背景には、ことの重要性を明確に知っていてしかも国家と資本を動かすことの出来る人物の存在を考えるのが自然です。
当時、英国、米国が鯨油をとるためにそれぞれ年間100万尾とも言われる大量の鯨を捕殺していたことを考えると鯨油代替物の市場規模の大きさは目ざとい人間には自明のことでした。しかも照明にも暖房にも灯油の方が優れていました。
さらに石油から精製した重油は当時蒸気船の遠洋航海に必須であった石炭の代替物ともなります。石油は単位重量あたりのエネルギーが石炭より高く、液体であるために輸送もより容易です。そう考えるとその人物にとってLukasiewicz氏は世界初の精油所の開拓者としてうってつけの人間です。
化学の知識を持ち、政治運動に打ち込んで投獄され、大学も卒業できず一種のあぶれ者でした。なのより、英国やフランスのような科学技術、産業技術が進んだ軍事大国ではありませんでした。
石油精製技術によりポーランドが軍事的脅威となる心配はありませんでした。ただしそこから事業で大をなし、富を慈善に大盤振る舞いしたことは立派です。
こう当時の状況を分析すると、ポーランドの精油所建設からの2年後ルーマニアで米国資本による石油精製所が造られたのも納得がいきます。
その後、1860年代に米国における石油精製産業が、南北戦争終結後、北部資本により脱兎のごとく広がっていったのも頷けます。
油田の多くは敗戦で疲弊した南部にありました。ただし米国初の油田開削は、安政6年(1959年)にドレークがペンシルバニア州タイタスビルで発見し、おこなったものでした。
渡辺氏の日本対シナ前進基地説には、その後起きたことと不整合な点があります。まず、米国のシナへの投資が活発化したのは、第一次世界大戦終了以降でした。そんな先のことのために嘉永6年にペリー提督を派遣する必要があったのでしょうか。
19世紀後半に米国のシナへの麻薬輸出も大きな規模であったとはとても思えません。当時の麻薬の主産地は英国領であり、英国資本との競争に勝てるとはとても思えません。
そんな不利な戦いに挑むより、米国(綿花)→英国(綿製品)→英領インド(麻薬)→シナ(銀、茶)→英国経由米国が利益回収というループを円滑に回す方がはるかに米国資本にとっても得だからです。
そして20世紀になって、このループは米国資本にとってさらに有利になりました。ボーア戦争において大量の英国債券を買い込んだ米国の銀行は英国勝利によって大もうけしただけでなく、米国は純債権国となりドルは世界基軸通貨となりました。
また米国の投資家が英国企業に多額の投資を行なうことにより、よりストレートに言えば、戦争で疲弊した英国の企業株を安値で買いあさることにより、上記のループで英国企業が儲けたお金が米国資本の懐に転がり込むようになりました。
さらに石油が蒸気船の燃料として使われるようになると、海上輸送単価が大きく下がりました。結果、それ以前には輸送費が高くて米国からヨーロッパへ輸出できなかった小麦が大量に輸出されるようになり、その結果、ウクライナの小麦が競争に負け、領地の小麦生産に経済的基盤を置いていたロシアの貴族が没落しました。
これが、ロシア革命成功の一因となりました。
1927年のオイルメージャーによるアクアキャナリー協約で世界市場における石油の市場価格は、油田のある場所に関係なく米国テキサス州での受け渡し価格を基準としてテキサスからの距離に比例した輸送料を上乗せすることに決められました。
つまりジャヴァと取れた石油ですらアジアではヨーロッパより高い価格が設定されました。
このことにより東アジアにおける石油価格は最高になり東アジア諸国民からお金をふんだくる構造ができました。1934年米国連邦準備銀行法改訂により、ドルは金に対して大幅に値下げされて金兌換となりました。
その直前の1年間で1万5千トンの金を米国が輸入したことが米国商務省の統計でわかります。つまり米国に金を輸出した連中と米国で金を輸入した連中は大もうけしました。かれらが事前にドルが大幅な安値で金兌換となることを知らずにそんなことをしたとは到底考えられません。
だれがそんな大量の金を動かすだけの資金を持っていたのでしょうか。そんなことの出来る連中は当時世界にあるひとつのグループの人たちだけでした。
ただし、これらは皆結果論に過ぎないともいえます。しかし、渡辺説も自説に都合のよい事実を集めただけだともいえます。
ペリー来航に際して動いた人たちの中には、いろいろな意見、利害関係の人たちがいたはずです。そう考えれば渡辺氏の説も私の仮説も玉葱の何枚もある皮の中の特定の何枚目かだけを取り出して、これが一番重要な皮だといっているように思われます。ただ何枚目かが違うだけです。
それなら、結果としての歴史により適合する結果論の方がよいと考えます。
ペリーを派遣した人物が、もし、当時の世界経済を的確に把握していたら、そして日本での石油精製とその生成物の利用状況を知っていたら、おそらく恐れおののいて、眠れぬ夜をすごしていたでしょう。
この技術が英国の手に落ちたら、そして当時既にseep oilの存在が知られていたルーマニアと中欧地域に英国の支配が行き渡ったら?
日本におけるseep oil資源が新潟だけでなく全国に広がっていて、日本に英邁な君主と、それを支える有能な群臣がいて、あの技術を活用したら?
しかしペリー来航の嘉永6年(1853年)には、Lukasiewicz 氏が灯油ランプを実用化し、再来航した安政1年(1854年)には、ポーランドに石油精製所ができました。
また当時、新発田や柏崎近辺にあった、seep oilの油田地帯も規模が小さく、石油産業として大きく育つ見込みがないと見切れていたのではないのでしょうか。
それだからこそそれ以降の米国政府の対日通商交渉が熱意のないゆっくりとしたものになったのではないのでしょうか。結果論から見るとこちらのシナリオが真実らしく思えてきます。
19世紀半ばから現在に至るまでの160年間を鑑みると、そのうねりはまさに石油争奪と利用技術のグレートゲームでした。
そして、これからどう生きていくか、また日本という国をどの方向に進めていくかをの回答を歴史から学ぶには、ペリー来航で米国の指導層の意図が何であったかより、歴史のうねりが、そして流れがどうであったかの方がはるかに重大であると考えます。(ST生、千葉)
(宮崎正弘のコメント)ロックフェラーは石油生産、精製、運搬そして流通を握り、冨を独占した。その結果、アメリカに独占禁止法が生まれ、適用され、ロックフェラー帝国は、原油生産、精製、運輸、流通と分野別に分社化され、鉄道は独立し、そしてほかの石油会社も生まれ、メジャーは競合しあい、やがてOPECができて振り出しに戻り、市場優先主義が生まれ、そこへ投機資金が入り、グレートゲームは姿を変えてしまった。
ところで話を飛ばしますが、アメリカの法律を金科玉条のごとくして、独占禁止法の「精神」が重要とばかり、じつにみみっちぃ分野にも独禁法を適用させる日本の法律業界。その矮小な姿勢、その法律運用と解釈も度し難いと思います。
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8日付け各紙は駐台湾日本代表(交流協会代表=事実上の日本大使)が齋藤正樹氏から今井正氏に交代することを論評抜きで報じている。
背景にあるのは五月に齋藤代表が嘉義大学でおこなわれたシンポジウムの席上「台湾の国際的地位は未定」と日本政府の所見をのべたことに対して、馬英九総統が強く反発し、面会拒否を続けたことによる。暗黙の大使更迭要求ともとれた。
台湾は日本がサンフランシスコ講和条約で放棄したが、帰属は未定であり、現在の中華民国なる存在は国際法上、合法性はない。
蒋介石が台湾へ逃げ込んだあとに「中華民国」の領土として既成事実化したもの。つまり日本の外交解釈に厳密に従えば、齋藤代表の見解が正しいのである。
ところが日本外務省はなんと馬の暗黙の辞任要求に屈服するかのように、齋藤氏の更迭をきめ、新しい台湾代表に今井正(前沖縄担当大使)を送り込むことを内定、すでに12月2日の時点で台湾各紙が伝えていた。
曰く「今井氏は宮本雄二駐北京大使の同期生であり、いかに日本が台湾を重視しているかの現れである。たしかに今井氏は両岸関係に詳しくないが、日台関係の修復に前向きであり、日本の高層の台湾重視を反映している。なぜなら今井氏はイスラエル、マレーシア大使を歴任し、南アジア通だから」(連合報、12月5日)。
曰く。「齋藤代表の“離任”は日本の善意の現れ。過去十年きわめて友好的だった日台関係が停滞する失言をなした齋藤氏にかわって今井氏が台湾に赴任するのは日本が正常化をのぞむ証拠である」(中国時報、12月3日付け)。
こうした解釈は“お笑い草”と言って良いだろう。
筆者が十月に北京に滞在した折、何人かの事情通に聞くと、宮本大使の現地での評判は最悪に近かった。そんなことより、台湾が北京におもねっている心理が見え隠れする論評、この分析は台湾が北京に遜っている心理を如実に物語る。
また同時に日本の外務省が台湾の要求を呑んだことは、外交的敗北ではないのか?
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(読者の声1)いま出ている『正論』1月号の巻頭に掲載された金美齢氏の慟哭の一文『私はなぜ日本国民となったのか』を手にとり目頭が熱くなりました。理知的な筆致ですが、激しい情動を抑えて筆が運ばれています。
本年9月日本に帰化した気持ちを切々と綴った文脈を追いながら、この一文は読者よりも誰よりも亡き夫周英明氏に宛てられ捧げられていると感得しました。その掉尾に次のようにあります。
周英明が愛し、終生その行く末を気にした台湾と日本の二つの祖国。「中華民国には近寄りたくない。嫌だ」と言った彼は、日本人として最前線に立つことに決めた私と、きっと同じ道を歩んでくれたに違いない。
言うまでもなく周英明氏がもっとも愛したのは金美齢氏です。金氏は周氏に「生前同様私の行動を見守っていてほしい。同じ道を歩きましょう」と呼び掛けているのです。金氏は、台湾が無念にも国民党の馬英九政権のもとで中国のブラックホールに吸い込まれるポイント・オブ・ノーリターンを過ぎてしまい、今こそ日本が最前線に立った、だから日本に帰化したと述べています。戦前、金氏も周氏も日本人でした。
戦後中華民国籍となりましたが、蒋介石政権の横暴非道に怒り、中華民国籍を棄て、反政府運動に挺身しました。
蒋経国の死亡で副総統から総統となった李登輝氏は、直接選挙による台湾国民の信任を経て、実に巧みに民主化と台湾化を進め、反政府運動をしていた人々の名誉を回復し帰国を許しました。
本省人の陳水扁が李氏の後を襲うに至って、台湾が台湾人の台湾人による台湾人のための民主主義国家となる可能性が高まりました。
しかし陳水扁の経済政策の失敗から台湾の民意は外省人(中国人)のためだけにある国民党を選択し、その選択は金美齢氏に故国が台湾人の自決国家となることの不可能性を悟らせたのでした。
それは‘90年代から2000年代前半にかけて台湾に射していた台湾人による自治政府実現への燭光が消え失せた瞬間でした。もうその光は二度と戻ってこないことを金氏は一人孤独に悟ったのでした。
ことしの「憂国忌」で西部邁氏は日本人への絶望感を三島由紀夫に託して、以下のように熱く語っていました。あの時、三島は本当に絶望していたのではないのか。何に絶望していたかというと、本当は日本人に絶望していたんじゃないのか。
あれからもう39年経った。日本にまったく希望が無いとは言わないが、39年経ったというすさまじい時間の持続を考えたら、我々がどれほど深々と砂漠の中に足を突っ込んでいるかを考えたら、そこでなお且つ物を言うとしたら、日本人にはほとんど一切希望を持つことはできないと言い、この社会はどうしようもない大脳震盪を起こし、周章狼狽、呆然自失に陥るだろうと、にこやかに言う。ある程度の覚悟と認識をもって、ある程度責任ある行動をとろうとするなら、ほぼ負けを覚悟してでないとできない。
頑張ればいいことがあるだろうなんて生易しい状況ではない。負けを覚悟しなければ物を言う気がしない。勝つだろうなんて希望は何処にもない。事態はそこまで来ている。
金美齢氏の心中は、まさにこの西部氏の慨嘆の「三島」を「金美齢」に、「日本人」を「台湾人」に置き換えたものでしょう。金氏のすさまじさは、三島由紀夫同様、実際に行動を起こしたことです。台湾人として被っていた殻が腐り始めたと見るや、すぐさまその殻を自ら切り裂いて、「最前線」と見なした日本に帰化したのです。
深い絶望の淵に虚しく遊弋することを肯んじ得ず、「なんの希望もない」と思いながらも老躯に鞭打って(失礼!)、果敢な行動に打って出たのです。その心根は若武者のように雄々しく直勁です。
金氏の悲痛な慟哭の叫びが台湾に届いたかのように、貴速報(貴誌、12月8日付け)の通り、彼の地の統一地方選挙で民進党は実質的な勝利を得て頽勢を止め、一方国民党の地盤は崩落しボスの馬は支持率を急落させました。
つらつら彼我の状況を見て思い巡らしますと、「最前線」と位置付けられた日本こそ、「金美齢」なる人物が現れなければ台湾より先に熔けてしまい、その歴史、文化、伝統を失ってしまいそうです。(有楽生)
(宮崎正弘のコメント)先週末、台湾で蔡昆燦氏にお目にかかりました。席上、上のことに言及され、「哀しいな」の一言が感想でした。小生の金さんの著作への書評は下記にあります。
http://miyazaki.xii.jp/column/index.html
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(読者の声2)台湾政治情況、よく分かります。
ところで馬英九総統は選挙前から激ヤセとのことですが、その昔、川島正二郎が「やはり野に置け蓮華草」と荒船清十郎を称しておりましたが、所詮は「英語秘書」なのでしょうか。
それにしても二重苦三重苦であるはずなのに我がハトポッポは痩せた様子すら感じられませんが、鈍感、図太い、無恥、無関心、無責任・・・。嗚呼、形容詞なし。(KH生、埼玉)
(宮崎正弘のコメント)蒋経国の通訳だった馬英九にしてみれば、相手の言葉の勢いなどからも繊細なニュアンスをかぎ取る能力がある筈ですね。
ところで馬総統、あの痩せ方は異常です。一説に11キロ痩せた由です。そうそう、小生、台湾滞在中、日本の各紙の論説委員も台北に来ていました。8日の各紙(日経、産経、読売)の馬英九会見記が、それですね。
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(読者の声3)台湾「聯合報」(12月7日)の世論調査で蔡英文の満意度が43%、馬英九が33%と初めて逆転した、と伝えています。
国民党敗北は44%が党中央の執政なまずさ、政策の不適切、そして馬英九への不満が原因と答えていました。それでも馬英九は「選挙の結果、国民党の大陸政策は国民多数の支持を得た」と称して、ECFA調印など予定通り進めると発言しています。無能というより無知、白痴です。(KS生、在台湾)
(宮崎正弘のコメント)月末に北京から陳雲林が再度、台湾を訪問するようですが、またもや流血騒ぎになりそうですね。馬のすすめる統一市場、自由貿易協定に国民の多くが反対しているのですから。
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(読者の声4)台湾の県知事選挙は民進党が一増とは云え、得票数が大きく伸びていますので台湾人が目覚めだしたのではないか、と大いなる喜びを感じています。
台湾の知人も得票数は半分まで快復した、と喜びの電話を寄越してきました。
ともかく良心を持ち、和歌が詠める日本人と台湾人は『左脳思考』、和歌が詠めないで「欲望最高、道徳最低」の『右脳思考』のシナ人とは、所詮『水と油』で交じり合えない仲です。
早く政権を奪取しないと台湾人の未来はない、等と台湾人の更なる奮起を促しています。(北九州素浪人)
(宮崎正弘のコメント)一言で可能性を言えば、国民党の本土派と外省人派閥との分裂がキィでしょう。舞台裏の動きはあるようですが。。。
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(読者の声5)「日本を防衛するもの」。日本を何で防衛するかですが、私はすでに核での防衛は無理と思っています。では代替は何か。もっとも現在可能性が高いのは「円」だと思います。
アメリカドルは英・独金融軍事独裁主義者に乗っ取られて衰退したここ20年は「価値を維持しないとこちらも大変だ」というマイナス価値・鞭で支えられた世界通貨でした。これが崩壊し、世界通貨は混乱中の様子。ではユーロか?
世界はアメリカを滅ぼしつつあるのが元々はユーロ経済圏の世界支配パラノイヤだということを知っているので、いまさらユーロを全面的に信頼する気にはなれない。二酸化炭素排出権などという食えないルールで再び世界を牛耳ろうとする胡散臭さを世界は信用していない。百歩譲っても、二酸化炭素排出抑制は地球温暖化対策ではなく、地球環境保全対策とすべきでしょう。
原子力についても議論はオープンにすべきでしょう。アメリカを滅ぼして、次に中国に寄生しようとしているのはもともとユーロ圏がコアとしてもっている独裁・植民地主義症候群ではないのか。
では元か?中国はアフリカで失敗。日本人はアフリカ行くならサッカーチームのサムライブルーを着ていかないと、極悪中国人と間違われるとのこと。お金や暴力装置を中学生に預けたみたいなもので、怖くて元などまだ信用できない。
元が成人(元服・あるいは元が世界にとって福となる元福時代)となるまでにはまだ時間がかかると思います。とすると残るのは「円」。アメリカに寄生されて収奪されつづけたにも係わらず、生き残ってきた円。幸いにも対外的暴力装置を持てず、法治主義を貫き、通貨のデノミネーションを世界史に登場以来実施していないのは「円」だけではないかと思いますが、諸賢の情報をご教授願います。
これは、一度出した製品はユーザーが使い続けるかぎりメンテナンスするという日本の企業風土と一致しています。日本はお金ではなく、信用を大切する国です。 では円の価値を何で支えるのか?
金か?軍事か?もともと通貨とは信用という共同幻想ないし共同ルールで支えられるものです。この実体のない「信用」なるものを実体のある何物かによって代替しようとするのがそもそもの間違いではないか。
通貨バスケット、重要資源バスケットが有力となっている。これもありかとは思う。確かにモノよりはマルチのほうが安定する。であれば、と私は思う。
日本企業がかかわっている商品すべてに円での価格表示をつけたらどうなるのでしょうか? 日本に持ち込めば、その価格で流通することが原則。物々交換もその円レートで交換する。円表示するすべての商品価値でもって、すべての商品価値を保証する(0=∞)。と、素人は妄想しています。
日本を防衛するもの、それは核でもドル保有の桎梏でもなく、円表示の商品を優れた商品として作り続ける円経済圏の信用性ではないか。日本を防衛するもの、それは「円」ではないのでしょうか。
日本を防衛しようとするならば、日本国民は総力を挙げて、使用価値の高い商品を作り続ければよい。まずは国内で通用する信用力を獲得した商品しか海外には出さない(これは免疫と同じシステムです。胸腺内部での厳しいチェックを経た免疫細胞しか体全体には出てゆけない免疫システムを生命体は確立しています)。
あるいは、使用価値の高い商品を世界から買い続ければよい。お互いに核の先制攻撃はしないという個別条約を結んだ国としか交易しない。日本の優れた商品が欲しければ、条約締結せよ、というルール。別に日本はお宅に買ってもらわなくても世界にユーザーはたくさんいますから(持たないと怖い鞭のごときドルではなく、持たないと損をする飴のごとき円。手放したいという度に総理や大臣が不審死する蠍の尾のごとき鞭ドルなどもうコリゴリ。ドル国債は中国同様軍事秘密技術とバーターにでもしない限り価値なし。金融軍事の寡占の膿をださないとアメリカは復活できない。
ただし日本が要求するのは軍事技術の民生化。中国みたいに裏取引できませんから)。諸賢のご批判をお願いします。(アシカビヒコ)
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(読者の声6)貴誌通巻2792号にあった渡辺氏著『日本開国』(草思社)にあった書評を大変興味深く読ませていただきました。
これは絶対に読まねばならぬ本であると思い早速購入しました。なぜかというと、書評に紹介されていた渡辺氏の結論が、私には全く納得のいかないものだったからです。
ペリー来航に前後して日本で起きたことで、以前から気になっていながら放っていたことがあり、この際調べて確認せねばと思いました。
しかしその前にこの本を読んで見ねばと思い読み終わりましたが、やはりその本の書かれていたことでは私の気がかりは解決がつかず、むしろ渡辺氏の論、帰結に対する懐疑が強くなってきました。
(1)ペリーが日本を訪れた目的は日本を対シナ通商の前進基地とすることであった。
(2)米国は、英国との対シナ通商競争に勝つために前進基地を必要としていた。
その気になっていたこととは山下喜斎と石油に関することです。これは、以前宮崎正弘氏のメルマガの読者の声に「ST生、神奈川」氏が江戸時代の日本での石油利用に関して書かれたことがありました。その内容に補足して以下に記します。
(1)日本書紀に天智7年(西暦668年)新潟地方から「燃ゆる水」「燃ゆる土」が朝廷に献上されたとあります。この「燃ゆる水」は石油、「燃ゆる土」は天然アスファルトのことだと推定されています。
おそらく英語でいうseep oilという掘らなくても地面から湧き出て、水溜りにアスファルト状のものとともに原油が溜まっているところが新潟にあったのでしょう。これを江戸時代には「くそうず」つまり臭い水とよんでいました。
(2)慶長13年(1608年)には、越後柄目木村(現在の新潟市秋葉区内)の真柄仁兵衛貞賢という人物が、油田を発見し、慶長18年(1613年)には蘭引(らんびき)で灯油をつくったという記録があります。
新発田藩の許可を得て元和元年(1615年)には、油井をうがちこれを沸壺(にいつぼ)と読んだとあります。この油井は明治30年頃まで盛んに石油を出していたそうです。
ところで、「蘭引」の語源はアラビア語の「アランビック」だといわれています。アランビックは蒸留酒や錬金術に用いられた蒸留器のことでした。それが江戸時代に日本に伝わって、水を蒸留して薬用に使ったり、酒類の製造や花の抽出液を取り出して化粧水をつくったりするのに用いられました。
(3) 嘉永3年(1950年)頃に、新潟の蘭方医山下喜斎が原油から灯油を製造し、薬用として使ったとつたえられています。
(4)西村毅一氏が蘭方医山下喜斎の指導の下石油精製に成功し、嘉永5年(1852年)に柏原近くの半田村の阿部新左衛門氏(西村氏の兄)の土地に石油精製所を造りました。
ところが、この日本における石油利用の歴史は欧米では無視されているようです。欧米で認知されている近代の(古代メソポタミア文明等の石油利用は除く)石油利用は以下のとおりです。
(1)1847年に瀝青という石炭の一種から滲み出た原油から灯油を作る技術が英国で技師ジェイムズ・ヤング氏によって開発され、翌年特許をとり、この技術が米国に伝わりました。(渡辺氏の本では1850年に米国で特許取得とあります)。
灯油をベースにした照明、暖房の鯨油に対する優位性が知られました。
(2)ポーランドでLukasiewicz氏が灯油ランプの発明(1853年)し、精油法を開発し精油所を建設(1954年)しました。これが、西洋では世界初の近代的石油精製所といわれているものです。
(3)ルーマニアのPloestiで世界で初の大規模な石油精製所が米国資本の投資によって、1856年に建造されました。
この論を書き進めるうちにペリーの艦隊の蒸気船であるサスケハナ号の名前のもとになった、サスケハナ川のほとりに住んでいた頃を懐かしく思い出しました。Tristate Areaと呼ばれるニューヨーク州、ペンシルバニア州、オハイオ州の境の地域です。
その時代の日々が今の私の中に生きているように、西村毅一氏が半田村に造った世界初の石油精製所は、有為曲折経てを現在の柏崎製油所となり、Ignacy Lukasiewicz氏がポーランドに造った製油所は大成功し、氏は当時のポーランドで著名な慈善家として知られていました。
ルーマニアに米国資本により造られた製油所は、その後大発展し第二次大戦では、ドイツ軍と連合軍の間で争奪戦が繰り広げられました。19世紀末から20世紀の欧米を動かしてきた主軸は石油を巡るグレートゲームとも言えるように思います。
さらに20世紀後半から21世紀においても少なくとも当面は世界を動かしている主軸ともいえます。その大きな流れの鍵を開けたのが、謎の蘭方医・山下喜斎であり、そこから生まれた世界初の石油精製工場でした。
その技術の存在が長崎出島を通して米国に知られ目ざとい人の眼を日本に向けさせ、さらにポーランドのLukasiewicz氏がそれからヒントを得て自身も石油精製工場を造ったとのかもしれないと思えてきます。
だからこそ、無視せざるを得ないのかもしれません。しかし、証拠を見つけ出すことはたとえ真実であったとしても非常に難しいことでしょう。
ルーマニアでの製油所建設にいたるまでと猛烈な勢いで進んでいったということの背景には、ことの重要性を明確に知っていてしかも国家と資本を動かすことの出来る人物の存在を考えるのが自然です。
当時、英国、米国が鯨油をとるためにそれぞれ年間100万尾とも言われる大量の鯨を捕殺していたことを考えると鯨油代替物の市場規模の大きさは目ざとい人間には自明のことでした。しかも照明にも暖房にも灯油の方が優れていました。
さらに石油から精製した重油は当時蒸気船の遠洋航海に必須であった石炭の代替物ともなります。石油は単位重量あたりのエネルギーが石炭より高く、液体であるために輸送もより容易です。そう考えるとその人物にとってLukasiewicz氏は世界初の精油所の開拓者としてうってつけの人間です。
化学の知識を持ち、政治運動に打ち込んで投獄され、大学も卒業できず一種のあぶれ者でした。なのより、英国やフランスのような科学技術、産業技術が進んだ軍事大国ではありませんでした。
石油精製技術によりポーランドが軍事的脅威となる心配はありませんでした。ただしそこから事業で大をなし、富を慈善に大盤振る舞いしたことは立派です。
こう当時の状況を分析すると、ポーランドの精油所建設からの2年後ルーマニアで米国資本による石油精製所が造られたのも納得がいきます。
その後、1860年代に米国における石油精製産業が、南北戦争終結後、北部資本により脱兎のごとく広がっていったのも頷けます。
油田の多くは敗戦で疲弊した南部にありました。ただし米国初の油田開削は、安政6年(1959年)にドレークがペンシルバニア州タイタスビルで発見し、おこなったものでした。
渡辺氏の日本対シナ前進基地説には、その後起きたことと不整合な点があります。まず、米国のシナへの投資が活発化したのは、第一次世界大戦終了以降でした。そんな先のことのために嘉永6年にペリー提督を派遣する必要があったのでしょうか。
19世紀後半に米国のシナへの麻薬輸出も大きな規模であったとはとても思えません。当時の麻薬の主産地は英国領であり、英国資本との競争に勝てるとはとても思えません。
そんな不利な戦いに挑むより、米国(綿花)→英国(綿製品)→英領インド(麻薬)→シナ(銀、茶)→英国経由米国が利益回収というループを円滑に回す方がはるかに米国資本にとっても得だからです。
そして20世紀になって、このループは米国資本にとってさらに有利になりました。ボーア戦争において大量の英国債券を買い込んだ米国の銀行は英国勝利によって大もうけしただけでなく、米国は純債権国となりドルは世界基軸通貨となりました。
また米国の投資家が英国企業に多額の投資を行なうことにより、よりストレートに言えば、戦争で疲弊した英国の企業株を安値で買いあさることにより、上記のループで英国企業が儲けたお金が米国資本の懐に転がり込むようになりました。
さらに石油が蒸気船の燃料として使われるようになると、海上輸送単価が大きく下がりました。結果、それ以前には輸送費が高くて米国からヨーロッパへ輸出できなかった小麦が大量に輸出されるようになり、その結果、ウクライナの小麦が競争に負け、領地の小麦生産に経済的基盤を置いていたロシアの貴族が没落しました。
これが、ロシア革命成功の一因となりました。
1927年のオイルメージャーによるアクアキャナリー協約で世界市場における石油の市場価格は、油田のある場所に関係なく米国テキサス州での受け渡し価格を基準としてテキサスからの距離に比例した輸送料を上乗せすることに決められました。
つまりジャヴァと取れた石油ですらアジアではヨーロッパより高い価格が設定されました。
このことにより東アジアにおける石油価格は最高になり東アジア諸国民からお金をふんだくる構造ができました。1934年米国連邦準備銀行法改訂により、ドルは金に対して大幅に値下げされて金兌換となりました。
その直前の1年間で1万5千トンの金を米国が輸入したことが米国商務省の統計でわかります。つまり米国に金を輸出した連中と米国で金を輸入した連中は大もうけしました。かれらが事前にドルが大幅な安値で金兌換となることを知らずにそんなことをしたとは到底考えられません。
だれがそんな大量の金を動かすだけの資金を持っていたのでしょうか。そんなことの出来る連中は当時世界にあるひとつのグループの人たちだけでした。
ただし、これらは皆結果論に過ぎないともいえます。しかし、渡辺説も自説に都合のよい事実を集めただけだともいえます。
ペリー来航に際して動いた人たちの中には、いろいろな意見、利害関係の人たちがいたはずです。そう考えれば渡辺氏の説も私の仮説も玉葱の何枚もある皮の中の特定の何枚目かだけを取り出して、これが一番重要な皮だといっているように思われます。ただ何枚目かが違うだけです。
それなら、結果としての歴史により適合する結果論の方がよいと考えます。
ペリーを派遣した人物が、もし、当時の世界経済を的確に把握していたら、そして日本での石油精製とその生成物の利用状況を知っていたら、おそらく恐れおののいて、眠れぬ夜をすごしていたでしょう。
この技術が英国の手に落ちたら、そして当時既にseep oilの存在が知られていたルーマニアと中欧地域に英国の支配が行き渡ったら?
日本におけるseep oil資源が新潟だけでなく全国に広がっていて、日本に英邁な君主と、それを支える有能な群臣がいて、あの技術を活用したら?
しかしペリー来航の嘉永6年(1853年)には、Lukasiewicz 氏が灯油ランプを実用化し、再来航した安政1年(1854年)には、ポーランドに石油精製所ができました。
また当時、新発田や柏崎近辺にあった、seep oilの油田地帯も規模が小さく、石油産業として大きく育つ見込みがないと見切れていたのではないのでしょうか。
それだからこそそれ以降の米国政府の対日通商交渉が熱意のないゆっくりとしたものになったのではないのでしょうか。結果論から見るとこちらのシナリオが真実らしく思えてきます。
19世紀半ばから現在に至るまでの160年間を鑑みると、そのうねりはまさに石油争奪と利用技術のグレートゲームでした。
そして、これからどう生きていくか、また日本という国をどの方向に進めていくかをの回答を歴史から学ぶには、ペリー来航で米国の指導層の意図が何であったかより、歴史のうねりが、そして流れがどうであったかの方がはるかに重大であると考えます。(ST生、千葉)
(宮崎正弘のコメント)ロックフェラーは石油生産、精製、運搬そして流通を握り、冨を独占した。その結果、アメリカに独占禁止法が生まれ、適用され、ロックフェラー帝国は、原油生産、精製、運輸、流通と分野別に分社化され、鉄道は独立し、そしてほかの石油会社も生まれ、メジャーは競合しあい、やがてOPECができて振り出しに戻り、市場優先主義が生まれ、そこへ投機資金が入り、グレートゲームは姿を変えてしまった。
ところで話を飛ばしますが、アメリカの法律を金科玉条のごとくして、独占禁止法の「精神」が重要とばかり、じつにみみっちぃ分野にも独禁法を適用させる日本の法律業界。その矮小な姿勢、その法律運用と解釈も度し難いと思います。
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