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時代政治屋の狂態踊り 渡部亮次郎
標題は嘗て内閣総辞職に追い込まれた米内光政が知人に送った手紙の中で近衛文麿や松岡洋右(ようすけ)らを指して書いたもの。「魔性の歴史といふものは人々の脳裡に幾千となく蜃気楼を現はし・・・時代政治屋に狂態の踊りを踊らせる」と言うもの。

かつて読売新聞が連載した「検証・戦争責任」(2006.04.21に書かれている。新聞を詳しくは読まない性格だが、この連載だけは時間をかけて、2ページを仔細に読んだ。戦争を知っているようで知らないからである。

父方の祖父は日露戦争のラッパ手だったが、戦争の話は一切したがらなかった。ラッパを吹かされたが故に肋膜炎を患ったといい、孫たる私の弟が中学でブラスバンドに入りたいと言った時、父は許さなかった。

私の生まれは昭和11年1月。大東亜戦争(太平洋戦争とアメリカはいう)が始まった時は5歳。翌年やっと6歳になって国民(小)学校入学。昭和20(1945)年8月の敗戦時は4年生だった。

したがって日華事変、大東亜戦争の経緯、政府・軍部内の対立などについて1度も系統立った教育は受けてないし、自らも部分的に「読書」をしたきりで、誠に恥じ入る次第である。読売の連載をきっかけに勉強しなおしている。

前後するが昭和53(1978)年、外務大臣秘書官として日中平和友好条約の締結交渉の真っ只中に在った際、外務大臣園田直は条約締結に反対する自民党内右派から、嘗ての松岡洋右みたいだと厳しく非難された。だから松岡の事は多少、読んだ。

松岡 洋右(まつおか ようすけ、男性、1880年3月4日 - 1946年6月27日)は日本の外交官、政治家。山口県出身。岸信介の岳父、安倍晋三の曽祖父に当たる人物。

1880年に山口県熊毛郡(現在の光市)にて、由緒ある廻船問屋の4男として生まれる。幼少の頃より腕白で、また負けん気の強い性格だったという。洋右が11歳の時父親が事業に失敗し破産したこと、親戚が既に渡米して一応の成功を収めていたことなどから1893年に留学のため渡米する。

オレゴン州ポートランド、カリフォルニア州オークランドなどで苦学の末、オレゴン大学(法科)に入学、1900年に卒業する。大学と並行して早稲田大学の法学講義録を取り寄せ勉強するなど、勉学心旺盛であったが、母親の健康状態悪化などを理由に1902年、9年振りに帰国する。

1904年、外交官試験に合格し外務省に入省する。なお、この外務省入りはそれほど積極的な動機に基づくのでなく、折からの日露戦争に対する一種の徴兵忌避的意味合いがあったのではないかとの説もある。

1930年、満鉄を退職、2月の第17回衆議院議員総選挙に郷里山口2区から立候補(政友会所属)、当選する。議会内では、幣原外務大臣の対米英協調・対中内政不干渉方針を厳しく批判した。

1931年の満州事変をうけて、翌1932年、国際連盟はリットン調査団を派遣、その報告書(対日勧告案)が9月に提出され、ジュネーブ特別総会での採択を待つ状況だった。

報告書そのものの内容は日本の満州における特殊権益の存在を認める等、日本にとって必ずしも不利な内容ではなかったが、日本国内の世論は硬化、政府は報告書正式提出の直前(9月15日)に満州国を正式承認するな
ど、政策の選択肢が限定される状況であった。

このような中で、1932年10月、代議士の松岡は同総会に首席全権として派遣された。その類まれな英語での弁舌を期待されての人選である。日本国内の期待にたがわず、到着早々の松岡は同年12月8日、1時間20分にわたる原稿なしの演説を総会で行う。

それは「十字架上の日本」とでも題すべきもので、欧米諸国は20世紀の日本を十字架上に磔刑に処しようとしているが、イエスが後世においてようやく理解された如く、日本の正当性は必ず明らかになるだろう、との趣旨のものだった。

しかし、日本国内では喝采を浴びたこの演説も、諸外国、特にキリスト教国においてはむしろ逆効果であった。

日本政府は、リットン報告書が採択された場合は代表を引き揚げることを決定(1933年2月21日)、2月24日の総会で同報告書は予想通り賛成42票、反対1票(日本)、棄権1票(シャム=現タイ国)、投票不参加1国(チリ)の圧倒的多数で可決。

松岡は予め用意の宣言書を朗読した後、閉会前に会場を退場した。松岡の「宣言書」そのものには国際連盟脱退を示唆する文言は含まれていないが、同3月8日に日本政府は脱退を決定(同27日連盟に通告)することになる。

1940年7月22日に成立した第2次近衛内閣で、松岡は外務大臣に就任した。内閣成立直前の7月19日、近衛が松岡、陸海軍大臣予定者の東条英機陸軍中将、吉田善吾海軍中将を別宅荻外荘に招いて行ったいわゆる荻窪会談で、松岡は外交における自らのリーダーシップの確保を強く要求、近衛も了承したという。

20年近く遠ざかっていた外務省にトップとして復帰した松岡はまず、官僚主導の外交を排除するとして、赴任したばかりの重光葵(駐英大使)以外の主要な在外外交官四十数名を更迭、代議士や軍人など各界の要人を新任大使に任命、また「革新派外交官」として知られていた白鳥敏夫を外務省顧問に任命した(「松岡人事」)。

更に有力な外交官たちには辞表を出させて外務省から退職させようとするが、駐ソ大使を更迭された東郷茂徳(大東亜戦争開戦時と敗戦時の外相)らは辞表提出を拒否して抵抗した。

彼の外交構想は、大東亜共栄圏(この語句自体、松岡がラジオ談話で使ったのが公人の言としては初出)の完成を目指し、それを北方から脅かすソ連との間に何らかの了解に達することでソ連を中立化。

それはソ連と不可侵条約を結んでいるドイツの仲介によって行い、日本―ソ連―独・伊とユーラシア大陸を横断する枢軸国の勢力集団を完成させれば、それは米英を中心とした「持てる国」との勢力均衡を通じて世界平和・安定に寄与する、というものではなかったかと考えられる。

こうして松岡は日独伊3国軍事同盟および日ソ中立条約の成立に邁進する。

日独伊3国軍事同盟は1940年9月27日成立し、松岡外相はその翌年1941年3月13日、同盟成立慶祝を名目として独伊を歴訪、ヒトラー、ムッソリーニと首脳会談を行い大歓迎を受ける。

帰途モスクワに立ち寄り、4月13日には日ソ中立条約を電撃的に調印。シベリア鉄道で帰京する際には、異例なことにスターリン首相自らが駅頭で見送るという場面もあった。この時が松岡洋右外交の絶頂期だった。

一方松岡のこの外遊中、日米交渉に進展が見られていた。駐米大使野村吉三郎と米国務長官コーデル・ハルの会談で提案された「日米了解案」(日本には4月18日に伝達)がそれである。

同案では、日本軍の中国大陸からの段階的な撤兵、日独伊32国同盟の事実上の形骸化と引き換えに、アメリカ側の満州国の事実上の承認、日本の南方における平和的資源確保にアメリカが協力すること、が盛り込まれていた。

なお、この諒解案そのものは日米交渉開始のため叩き台に過ぎなかったが、これを「米国側提案」と誤解した日本では、最強硬派の陸軍も含めて諸手を挙げて賛成の状況であった。

ところが4月22日に意気揚々と帰国した松岡はこの案に猛反対する。自らが心血注いで成立させた3国同盟を有名無実化させること、そして外交交渉が自分の不在の間に頭越しで進められることを松岡の自尊心は許さなかった。

しかし1941年6月22日に開戦した独ソ戦によって、松岡のユーラシア枢軸構想自体、その基盤から瓦解していたのである。松岡は締結したばかりの日ソ中立条約を破棄して対ソ宣戦することを閣内で主張し、また対米交渉では強硬な「日本案」を米国に提案するなど、その外交手腕も混乱を極めた。

日米交渉開始に支障となると判断した近衛首相は松岡に外相辞任を迫るが拒否。仕方なく、近衛は7月16日内閣総辞職し、松岡外相をはずした上で第3次近衛内閣を発足させた。

対米強硬論を唱えていたが、最終的には日米が平和裡に手を握れる日を夢見ていた松岡は、1941年12月6日、日米開戦の方針を知り「僕一生の不覚である」と無念の思いを周囲に漏らしたという。その後結核に倒れた松岡は以前とは別人となったように痩せ細る。

敗戦後、A級戦犯として逮捕されたが、結核悪化のため東京裁判公判法廷にはただ1度出席し、罪状認否では英語で無罪を主張。1946年6月27日、米軍病院から転院を許された東大病院で病死、66歳であった。辞世の句は「悔いもなく怨みもなくて行く黄泉(よみじ)」。

米国で苦学した松岡は「道を歩いていてアメリカ人に衝突しそうになったら、絶対に道を譲ってはいけない。殴られたら殴り返さなければいけない。アメリカでは一度でも頭を下げたら、二度と頭を上げることはできない」を口癖にしていたという。

山田風太郎は自著「人間臨終図鑑」の中で、「松岡は相手の手を全然見ずに、己の手ばかりを見ている麻雀打ちであった。彼はヤクマンを志してヤクマンに振り込んだ」と寸評している。 (出典:フリー百科事典「ウィキペディア」)

出典からかなり省略したが、要は今のインドネシア(当時はオランダ領)の石油を欲する日本陸軍は海軍の強力な反対を押し切ってドイツ、イタリアとの3国同盟体制に突入。米英を怒らせて、大東亜戦争となったわけ
である。

読売のいいところは,戦争を煽ったことを率直に認めて、国家総動員を図る近衛内閣にたいし「従来の半自由主義的な中途半端な考え方や方法では駄目だ」と発破をかけていたことを紹介していることだ。

戦争反対ばかりを主張するのが一貫しているような朝日新聞だが、3国同盟成立のときは読売より酷くて「いまぞ成れり“歴史の誓い” めぐる酒盃、万感の怒涛」と書いたと読売は書いている。

こうした流れに押されて歴史の場から去って行く米内の吐いた科白が時代政治屋の狂態踊りと言うわけだが、今の政治家は「風」に乗らなければ当選できないと、パフォーマンスに明け暮れているから、米内が生きていたらなんと言うだろうか。

杜父魚文庫
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