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<feed version="0.3" xml:lang="ja" xmlns="http://purl.org/atom/ns#" xmlns:dc="http://purl.org/dc/elements/1.1/"><title>杜父魚文庫ブログ</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.kajika.net/" /><modified>2008-08-21T05:00:38+09:00</modified><tagline>今時の社会模様を一刀両断。毎日更新中。</tagline><generator url="http://jugem.cc/">JUGEM</generator><entry><title>毛沢東の庶子・華国鋒が死去　古沢襄</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.kajika.net/?eid=863795" /><id>http://blog.kajika.net/?eid=863795</id><issued>2008-08-21T05:00:37+09:00</issued><modified>2008-08-20T20:00:37Z</modified><created>2008-08-20T20:00:37Z</created><summary>毛沢東の後継者だった華国鋒が亡くなった。華国鋒が危篤という情報は１４日に香港紙が伝えていた。世界の新聞に目を通している宮崎正弘氏がいち早くブログで報じてくれていた。

華国鋒の登場した頃、私は金沢で五年間の北陸勤務を終えようとしていた。１９７６年２月、...</summary><author><name>古沢　襄</name></author><dc:subject /><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[毛沢東の後継者だった華国鋒が亡くなった。華国鋒が危篤という情報は１４日に香港紙が伝えていた。世界の新聞に目を通している宮崎正弘氏がいち早くブログで報じてくれていた。<br />
<br />
華国鋒の登場した頃、私は金沢で五年間の北陸勤務を終えようとしていた。１９７６年２月、華国鋒は死去した周恩来首相の後をうけて首相代行に就任したが、毛沢東の庶子であることは知るよしもなかった。４月に毛沢東の指名で党第一副主席兼首相に昇格してオヤオヤと思った程度であった。<br />
<br />
しかし毛沢東の死後、江青・毛沢東夫人ら四人組と激烈な権力闘争を演じて、党主席に就き、文化大革命に終止符を打って華国鋒の時代がきたと思ったものである。しかし党内の実権は?小平が握るところとなり、この権力闘争に敗れて失脚、姿を消した。<br />
<br />
華国鋒は毛沢東の庶子。１９２０年代、湖南省で農民運動を展開していた毛沢東が「桃」という女性に産ませた。戸籍上は「蘇祷」と名乗ったという。<br />
<br />
絶大な権力者だった毛沢東が死んだ後の中国史は、一種の宮廷革命を思わせる。江青・毛沢東夫人を葬ったのは庶子の華国鋒。その華国鋒も毛沢東路線の完全継承を求めたために、近代化路線を目指す障害とみなされて除去された。<br />
<br />
２００２年の党大会で華国鋒は引退したが、この六年間その消息を聞くことはなかった。北京市内の病院で過ごしていたという。<br />
<br />
＜【北京２０日共同】中国国営通信新華社によると、毛沢東主席の後継者として１９７６年１０月に中国共産党主席に就任、文化大革命を推進した江青・毛沢東夫人ら「４人組」の逮捕でも大きな役割を果たした華国鋒氏が２０日、病気のため北京で死去した。<br />
<br />
８７歳だった。新華社は華氏について「中国共産党の優秀な党員で、忠実な共産主義の戦士、プロレタリアート革命家」と伝えた。（共同）＞<br />
<br />
<a href="http://www.kajika.net/blog.html">杜父魚ブログの全記事・索引リスト</a>（８月１４日現在２１６１本）]]></content></entry><entry><title>出るか”１兆円景気対策”　花岡信昭</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.kajika.net/?eid=863583" /><id>http://blog.kajika.net/?eid=863583</id><issued>2008-08-20T16:21:05+09:00</issued><modified>2008-08-20T07:21:05Z</modified><created>2008-08-20T07:21:05Z</created><summary>世間は北京五輪のメダルラッシュで大騒ぎだが、福田康夫首相（７２）はのんびり夏休みというわけにはいかない。お盆を終えて、週明けには再び「政治の季節」がやってくる。
今月初旬の人事によって、自民党の麻生太郎幹事長（６７）への「禅譲シナリオ」が浮上、公明党も...</summary><author><name>古沢　襄</name></author><dc:subject /><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[世間は北京五輪のメダルラッシュで大騒ぎだが、福田康夫首相（７２）はのんびり夏休みというわけにはいかない。お盆を終えて、週明けには再び「政治の季節」がやってくる。<br />
今月初旬の人事によって、自民党の麻生太郎幹事長（６７）への「禅譲シナリオ」が浮上、公明党も福田政権と微妙な距離を置きはじめており、福田首相はその厄介な連立方程式に直面している。<br />
<br />
それをばさっと切る特効薬として出てきたのが、「１兆円景気対策」だ。原油高、消費低迷、大型倒産、格差問題、企業減益といった経済環境をいっぺんに引っくり返す迫力を持ち得るかどうか。<br />
<br />
■臨時国会の召集は<br />
これは臨時国会の召集時期と微妙に絡む。公明党は早期召集に反対している。<br />
<br />
インド洋の海上自衛隊給油支援活動の継続を断ち切るために新テロ対策特別措置法改正案の再可決に反対し、さらには民主党が企てている矢野絢也（じゅんや）・元公明党委員長（７６）の国会招致を阻止するためにも、臨時国会は短いほうがいいということらしい。<br />
政府・自民党側は今月下旬の召集を求めていたが、公明党は９月下旬への先送りを要求、どうやら間を取って９月初旬から中旬ぐらいで決着しそうな気配だ。<br />
<br />
公明党を納得させる材料としても「１兆円景気対策」が打ち出せるのであれば、これは有効な策となる。<br />
<br />
そこで８月下旬に総合経済対策をまとめ、これに基づいた補正予算案を編成、臨時国会の中心テーマとする方向だ。<br />
<br />
麻生幹事長らは投資促進税制の検討を主張、貯蓄に回されているカネをいかに引き出すかを最優先に考えるべきだとしている。大型景気対策の軸のひとつにはなりそうだ。<br />
<br />
■「戻し税」浮上か<br />
だが、それだけではまだインパクトに欠ける。そこでひそかに検討されているのが、「戻し税」方式による減税だ。<br />
<br />
ブッシュ米政権が経済対策として低所得者に小切手を送付した「小切手減税」の日本版である。財源は特別会計などに隠されている「埋蔵金」を充てるという構想が出ている。<br />
<br />
国債を財源にしたら、将来へのツケを増やすだけの結果に終わるという批判が出るのは必至だから、「埋蔵金」を減税の原資にするのが一番いいというわけだ。<br />
<br />
特別会計のほか、かつて国立だった各種の独立行政法人も「埋蔵金さがし」の対象になっているらしい。<br />
<br />
「戻し税」というのは、現金が家庭に支給されるわけだから、通常ならば消費刺激効果は大きい。このご時世だから貯蓄に回るだけという指摘もないわけではないのだが、「家族そろってファミレスに１回行ってもらうだけでも効果はある」（自民党中堅幹部）。<br />
<br />
麻生氏や与謝野馨（よさの・かおる）経済財政担当相（６９）らは消費税増税論者だが、どうやら、来年度予算で消費税アップに踏み切ることは断念したようだ。基礎年金の国庫負担分引き上げに伴う財源措置は、たばこ増税などによって賄うということらしい。<br />
<br />
「上げ潮派」の中川秀直（ひでなお）元自民党幹事長（６４）がたばこ増税を主張していることを、巧みに取り込むというわけだ。<br />
<br />
年内解散の可能性もいわれる中、消費税増税を打ち出したら、とてもではないが選挙は戦えないというのが、与党内の共通認識ともなっている。<br />
<br />
厄介な課題はすべて「先送り」で政権維持をはかるというのが福田首相の基本戦略のようだが、「１兆円景気対策」で活路が開けるのかどうか。瀬戸際の神経戦が本格化するのは間違いない。<br />
<br />
<a href="http://www.kajika.net/blog.html">杜父魚ブログの全記事・索引リスト</a>（８月１４日現在２１６１本）]]></content></entry><entry><title>手練手管は吉原術  渡部亮次郎</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.kajika.net/?eid=863581" /><id>http://blog.kajika.net/?eid=863581</id><issued>2008-08-20T16:11:44+09:00</issued><modified>2008-08-20T07:11:44Z</modified><created>2008-08-20T07:11:44Z</created><summary>「手練手管てれんてくだ」について『新明解』は「うまいことを言って人を丸め込む方法」とあり、いずれにせよ褒め言葉ではない。

手練手管　ほんに惚れたはぬしだけでおざりィす

廓の譬えに「素見（ひやかし）千人、客百人、間夫が十人、地色（いろ）一人」という言...</summary><author><name>古沢　襄</name></author><dc:subject /><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[「手練手管てれんてくだ」について『新明解』は「うまいことを言って人を丸め込む方法」とあり、いずれにせよ褒め言葉ではない。<br />
<br />
手練手管　ほんに惚れたはぬしだけでおざりィす<br />
<br />
廓の譬えに「素見（ひやかし）千人、客百人、間夫が十人、地色（いろ）一人」という言葉がある。<br />
<br />
【吉原よしわら】江戸の遊郭。1617年、江戸市内各地に散在していた遊女屋を日本橋葭屋町（よしやまち）に集めたのに始まる。<br />
<br />
明暦の大火に全焼し千束日本堤下三谷（さんや)現在の台東区千束に移し新吉原と称した。北里、北州、北郭などとも呼ばれた。売春防止法(1958年4月施行)により遊郭は廃止。<br />
<br />
吉原にやってきて遊女を見てまわるだけの素見が1000人、そのうち客となるのは100人、馴染みとなって「私にとってはあなただけよ」などと言われてうつつを抜かす間夫（まぶ）が10人、しかし、遊女がほんに惚れている地色は１人だけという意味の言葉だ。現代でもこの譬えに身に覚えのある人は少なくはありますまい。<br />
<br />
「傾城（けいせい）=遊女）のまことの恋は恋ならで金持ってこいが本当（ほん）のこいなり」というように、遊女はある意味で客にいかに金を遣わせるかが商売である。<br />
<br />
たとえば遊女に対して見世から夕食は支給されないから、遊女は客をとり、その客に何らかの食事（台の物）を注文しもらわなければ食事にありつけないし、また、まともに男を相手にしていたのではとても身が持たない。<br />
<br />
「女郎の誠と卵の四角はありえない」と言われるように、客には身を預けて「ぬしだけよ」と言いながらも、本心ここにあらずのその手練手管は、「年季（ねん）があけたら夫婦になる」なんて起請文(きしょうもん)を客ととりかわしておきながら、実はその相手が３人いたという『三枚起請』などの落語にもなっている。<br />
<br />
起請文というのは、自分の名前のところに血判を押して神仏にかけて誓うもので、誓紙（牛王紙）を売り歩いた勧進比丘尼という人たちが「起請文を書くたびに熊野権現の烏が３羽死ぬ」と言いまわりました。<br />
<br />
誓いを破ると、熊野権現の烏が血を吐いて死に、たちまち天罰が下ると言われたため、はじめ、その誓いは堅く守られたと言う。<br />
<br />
起請文は戦国時代、武士同士の間でも盛んにやりとりされた。互いに裏切らないよう誓いを立てるのだが、そもそも親兄弟や主人と家来などが争う下克上の世の中だから、何度、書いたところで守られるわけがなく、次第に廃れていった。<br />
<br />
これに対して遊女の起請文は、少なくとも江戸時代の終わりまで見られたが、戦国時代の先例のように、目的は相手を信用させるためだけ、つまり見せかけであることが少なくなかった。<br />
<br />
文化14年（1817）に出版された洒落本『籬の花』にその例が出ている。遊女・梅川が客の八右衛門の前で自分の左薬指の爪の下に小刀を突き刺し、おもむろに血起請を書き始める。<br />
<br />
文字を墨で書くときは、牛王紙に書かれた烏の目のところどころに血を塗りつけ、「起請文の事」という題に続いて、誓いの文言を書き記し、最後にさまざまな神の名を記し、「もし背かば御ばつをこうむらん」という文章で締めくくる。<br />
<br />
梅川はこのとき「御ばつうをこうむらん」とした（平仮名の「う」と「ら」はよく似ている）。「御ばつう」は言葉ではないので、誓いを破ったところで罪は被らない、つまり一言「う」の文字を入れるだけで、本物の起請が嘘の起請になるってわけだ。<br />
<br />
そうとは知らない八右衛門、梅川が誠を誓ったと思い込み、紋日（料金が通常の倍になる）にまたくることと、梅川から頼まれた15両の金をも明日持ってくることを約束。梅川は「必ず見捨てておくんなんすなよ」と言って帰る八右衛門を見送る。<br />
<br />
この八右衛門といい、「ほんに惚れているのはぬしだけ。年季があけたら一緒になろうよ」と起請文をしたためたのを本気にした『三枚起請』の男たちといい、真に受けた男のほうがなんぼか純情かもしれない。<br />
<br />
だが、それはまあ言ってみればタヌキとキツネの化かしあいみたいなものでもある。「他客（ひと）は客、俺は間夫だと思う客」なんていう川柳もあり、冷ややかな客もおった。<br />
<br />
閨（ねや）の中でもさまざまな手練手管が使われる。わざとゆっくり手紙を書いたり、ちょっと手水（ちょうず=手洗い）へと座敷を出ていって他の客のところへ行ったり、たらふく酒を飲ませて酔い潰し、なかなか床入りしようとしないのは日常茶飯事。<br />
<br />
床入りしても長時間にわたって男とくんずほぐれつしていたのでは身が持たないから、適度にあそこをきゅっきゅと締めて、男をさっさと昇天させ、一丁上がりとすぐに寝込んでしまったり。<br />
<br />
あるいは逆に「もっとしましょうよ」と秘術を尽くし、何度も男を奮い立たせるなんてこともすれば、男の腰遣いに合わせて激しく腰を動かしたりもした。<br />
<br />
何度もおいたをするのは矛盾しているように思うかもしないが、男ってのは単純なものであって、もてないよりはもてたほうがいいに決まってる。<br />
<br />
また、たとえば武士の奥方の場合（だけに限らないが）、喘ぎ声をあげるのは恥だとする風潮があり、その間は硬直しっぱなしのマグロも珍しくない。<br />
<br />
一方、秘術を尽す遊女はそれはそれで面白いものだから、こうされるとその後もせっせとこの遊女に通い詰めることになるわけで、とくにやりたい盛りのむすこ（息子株）に対してこの手管がよく使われたようだ。<br />
<br />
むすこというのは、たとえば商家のまだ店を持たせてもらえない男であって、金はある、時間もあるという、吉原の上得意客の一人である。<br />
<br />
男を騙すのが手練なら、もてなすのも手管。そんな遊女の手練手管の数々が姉女郎から妹女郎へと伝えられていった。<br />
<br />
三十年前、アメリカとの外交交渉の席で園田直外務大臣のことをヴァンス国務長官が盛んに「テレンテクダ」の人と持ち上げた。わが方の通訳氏、この日本語を知らぬ「お坊ちゃん」で、話が混乱した。良き思い出である。<br />
<br />
名奉行として名高い根岸鎮衛が著した『耳嚢』（1781〜1818）という諸事の記録集に、騙しの話が載っている。<br />
<br />
http://www.din.or.jp/~sigma/yosiwara/teren.html<br />
<br />
<a href="http://www.kajika.net/blog.html">杜父魚ブログの全記事・索引リスト</a>（８月１４日現在２１６１本）]]></content></entry><entry><title>北京五輪の総括を始めよう　宮崎正弘</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.kajika.net/?eid=863163" /><id>http://blog.kajika.net/?eid=863163</id><issued>2008-08-19T16:54:10+09:00</issued><modified>2008-08-19T07:54:11Z</modified><created>2008-08-19T07:54:10Z</created><summary>愛国ナショナリズムの瞬間的爆発はたしかにあった。

開会式のショーは長すぎた。

ＣＧや口パク少女などインチキが多かった。批判が集中して、チャンイーモウ監督も散々だが、小生にとって一番気になったのは５６の民族が「中華民族」として宥和し、これからの中華文...</summary><author><name>古沢　襄</name></author><dc:subject /><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[愛国ナショナリズムの瞬間的爆発はたしかにあった。<br />
<br />
開会式のショーは長すぎた。<br />
<br />
ＣＧや口パク少女などインチキが多かった。批判が集中して、チャンイーモウ監督も散々だが、小生にとって一番気になったのは５６の民族が「中華民族」として宥和し、これからの中華文明文化を象徴するとして民族色豊かな舞踏を演じたあと、その踊り子の少女達が、じつは漢族だったという、最初から予測されたことだが、壮大なインチキである。<br />
<br />
つまり「中華民族」なる架空の概念が、政治的スローガンでしかないことが、この行為によって白日の下にさらされた。<br />
<br />
漢族が主流の漢族のための五輪であり、少数民族は北京五輪に価値を認めない事実も鮮明になった。<br />
<br />
五輪前にチベット、ウィグルへの弾圧は凄絶を極めたが、彼らを一元的に「五輪を妨害するテロリスト」だと詭弁を弄しても、海外メディアは北京の説明に冷淡だった。　<br />
<br />
頻発したテロ事件、爆破騒動に中国への同情心が沸かなかったのも、不思議と言えば不思議である。<br />
<br />
インチキが成立するのは政治と民衆との間に広がる「中国的闇」である。<br />
<br />
五輪のチケット一つをみても、はじめからインチキの花盛りだった。ネットオークションによるチケットの詐欺、売れ残りを公務員らを動員しての埋め合わせもうまく行かない。テレビ中継が全てを証明した。<br />
<br />
中国人選手のでない競技では席がガラガラではないか。<br />
　<br />
あらゆる中国の社会がこうなのである。騙す方が勝ちで騙された方が馬鹿なのだ。<br />
<br />
インチキ商品、コピィ商品、著作権侵害、海賊行為、無法。だから五輪のインチキ・チケットを印刷し、売りさばいて何が悪いか、という感覚。さすがに偽札が通貨発行量の弐割近いくにのことだけはなる。<br />
<br />
日本の旅行代理店の被害は相当だろうと想像できるし、ＪＡＬもＡＮＡも、中国路線の廃止、中断、減便に追い込まれるだろう。<br />
<br />
さて閉幕式も終わらないのに五輪をはやばやと総括するのは時期尚早かも知れないが、愛国、中華、大国くっき、百年の夢などの華々しい標語などは一体、どうなるか？<br />
<br />
五輪を成功裏に終わらせたことで、中国は「大国」の自信を背景に今後、世界史の主役となりおおせるのか？<br />
<br />
開会式こそ中国人のモラルはまともに見えたが日が経つにつれ、花火のあとのように、モラルが縮んでいった。<br />
<br />
見せかけのモラル向上、束の間のボランティア精神。空席をうめるために動員された中国人団体は、日本チームを絶対に応援しなかった。<br />
<br />
金メダルを期待された障害物競走のチャンピオン＝劉!)が土壇場でフライングの後、棄権したときは「死ね」「賞金泥棒」「ＣＭですぎ」などと悪罵のメッセージが書き込まれた。<br />
<br />
劉!)が「精神的圧力に耐えられない」と心理的に追い込まれた様子を訴える記事を、開会前にヘラルドトリビューンで読んで、中国の心理的環境の異常さを忖度した。<br />
<br />
いったん敗者になると、たとえ英雄であっても、「水に落ちた犬を打て」の中国的生き方が如実に生きていたのである。<br />
<br />
排外主義的ショービニズムは、何回か指摘したように「義和団の乱」に行き着く。<br />
<br />
中国人が文明的に遅れ、経済的に劣勢であることを、歴史の長さという唯一の中華的矜持で克服しようとしたとき、擬制ナショナリズムの瞬間的爆発が起こる。<br />
<br />
99年と01年におきた反米暴動も、05年の反日運動も、08年の反仏騒ぎも、全てはこれである。<br />
<br />
ユーゴスラビア中国大使館誤爆と海南島事件では、北京の米国大使館に火炎瓶が投げ込まれ、アメリカ大使は命からがら大使館から逃げだした。<br />
<br />
反日暴動は04年済南サッカーでのブーイングから北京での暴動へと至ったが、日本の勝利を「インチキで勝てた」などと絶対に自己の劣位を認めないことが動機である。北京のサッカー競技場には二千人の日本人サポーターらが夜中まで取り残され、大使館員らは邦人保護を抛擲して先に逃げた。<br />
<br />
中国人の民度に低さを嘆いたものだったが、本質は北京五輪でも変わらなかったように思える。<br />
　<br />
そして今後、中国は五輪の成功を背に民主化する？　全体主義一党独裁の体制が覆るシナリオは、百分の一の確率として存在はしても、実現性は希薄であろう。<br />
<br />
なによりもメインスタジアムが象徴して居るではないか。あれは庶民をこれからも鳥かごに閉じこめておきますよ、というメッセージでもあるからである。<br />
　　　　<br />
<a href="http://www.kajika.net/blog.html">杜父魚ブログの全記事・索引リスト</a>（８月１４日現在２１６１本）]]></content></entry><entry><title>”新冷戦時代”のシェワルナゼ警告　古沢襄</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.kajika.net/?eid=862731" /><id>http://blog.kajika.net/?eid=862731</id><issued>2008-08-18T18:17:32+09:00</issued><modified>2008-08-18T09:17:32Z</modified><created>2008-08-18T09:17:32Z</created><summary>今年８０歳の誕生日を迎えたエドゥアルド・シェワルナゼ（ソ連元外相、グルジア前大統領）が”新冷戦時代”を迎えると警告した。「チェコやポーランドのミサイル防衛（ＭＤ）を米国は考えなおすべきだ。米国がＭＤにこだわる限りロシアは強硬措置を取り続ける」という。冷戦...</summary><author><name>古沢　襄</name></author><dc:subject /><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[今年８０歳の誕生日を迎えたエドゥアルド・シェワルナゼ（ソ連元外相、グルジア前大統領）が”新冷戦時代”を迎えると警告した。「チェコやポーランドのミサイル防衛（ＭＤ）を米国は考えなおすべきだ。米国がＭＤにこだわる限りロシアは強硬措置を取り続ける」という。冷戦崩壊後、初めてロシア軍の周辺国出動を招いたグルジア紛争の原因もＭＤに起因するというわけだ。<br />
<br />
シェワルナゼはゴルバチョフの新思考外交の推進役としてソ連外相に就任、さらにゴルバチョフのペレストロイカ（改革）でも片腕となり、冷戦終結の旗手となった。しかし今回の発言をみる限り、元ソ連外相のワクから出ない。<br />
<br />
ソ連崩壊後はグルジア共和国の大統領となったが、親欧米路線をとるサアカシビリ大統領にとって代わられている。ロシアの周辺国家がロシア離れをみせるのは、米国のＣＩＡによる策謀という見方はもはや流行らない。大国主義から脱することができないロシア自身に問題がある。<br />
<br />
米国もそうだが、軍事大国であるロシアは、力づくで問題解決に当たる性癖が抜けない。佐藤内閣の椎名外相時代に外務省記者クラブにいたが、来日したソ連のグロムイコ外相ほど面白味に欠けた外交官はいなかった。何にでも「ニエット」と拒否権を使うのだから、外交術もクソもあったものではない。<br />
<br />
ゴルバチョフが登場してグロムイコは最高会議幹部会議長にタナ上げされ、後任の外相にはグルジア党第一書記に過ぎなかった無名のシェワルナゼを抜擢して内外を驚かせた。だが、ゴルバチョフ・シェワルナゼ時代も短かった。<br />
<br />
皮肉なことだが鉄壁の共産主義国家だったソ連は、ゴルバチョフのペレストロイカとグラスノスチ（情報公開）によっても崩壊を止めることができなかった。国際的にはゴルビーの民主化路線は歓迎されたが、ソ連国内では不人気で１９９１年の８月クーデターを招く結果となっている。<br />
<br />
さらにはゴルバチョフの改革もソ連の仕組みを温存した改良路線と改革派から批判され、保守派は強いソ連の求めて対立、混乱を招いた。<br />
<br />
シェワルナゼは新冷戦時代に突入すると警告する一方で、米国には人道支援だけでなくグルジアへの軍事支援を求めている。ロシアが撤兵せずに米国が軍事支援を強化すれば、むしろ新冷戦時代が深まるのではないか。正直にいわせて貰えば、シェワルナゼの発言には理解しがたいところがある。ペレストロイカが過去の言葉となったと同じようにシェワルナゼも過去の人になりつつある。<br />
　　　　　<br />
<a href="http://www.kajika.net/blog.html">杜父魚ブログの全記事・索引リスト</a>（８月１４日現在２１６１本）]]></content></entry><entry><title>華国鋒は何処に  渡部亮次郎</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.kajika.net/?eid=862676" /><id>http://blog.kajika.net/?eid=862676</id><issued>2008-08-18T15:38:33+09:00</issued><modified>2008-08-18T06:38:33Z</modified><created>2008-08-18T06:38:33Z</created><summary>日中平和友好条約の締結に外務大臣園田直と天安門の人民大会堂に行ったら迎えたのは党主席、中央軍事委員会主席華国鋒だった。その彼の危篤が報じられている。

昨年、自らが毛沢東死去の翌日に四人組逮捕を決断し、葉剣英ら党の長老に根回しをしたと華国鋒本人が証言し...</summary><author><name>古沢　襄</name></author><dc:subject /><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[日中平和友好条約の締結に外務大臣園田直と天安門の人民大会堂に行ったら迎えたのは党主席、中央軍事委員会主席華国鋒だった。その彼の危篤が報じられている。<br />
<br />
昨年、自らが毛沢東死去の翌日に四人組逮捕を決断し、葉剣英ら党の長老に根回しをしたと華国鋒本人が証言したことが明らかになった。<br />
<br />
華国鋒（か こくほう。1921年2月16日―）は、山西省交城県出身で、中国の元首相、中国共産党元主席。本名は蘇鋳。ちなみに華国鋒という名前は、抗日戦争時に彼が属していた「中華救国先鋒隊」から取られた。<br />
<br />
＜華国鋒元国務院総理、元軍事委員会主席が危篤　　「共産党は腐りきっている」と批判し続けた骨の髄までの共産主義者<br />
<br />
華国鋒は毛沢東の庶子。1920年代、湖南省で農民運動を展開していた毛沢東が「桃」という女性に産ませた。戸籍上は「蘇祷」と名乗った。<br />
<br />
革命成立後、華国鋒は湖南省書記に抜擢され、その後、同省公安部長を歴任後、中央政界へ。副首相、軍事委員会主席とトントン拍子に出世してゆく。周恩来病没直後には首相代行をつとめた。毛沢東の子供ゆえに、である。<br />
<br />
歴史的役割は、毛沢東がいまわの際に華を呼んで「君がやってくれるのなら安心だ」と遺言した（と言われるが、これは伝説になった）。<br />
<br />
華国鋒は直ちに軍をおさえていた葉剣英、党をおさえていた李先念と謀り、四人組を逮捕。1976年、華政権が成立した。<br />
<br />
だが華国鋒政権には「これ」という特色がなかった。ヴィジョン欠落、戦略性が希薄な人物だからであろう。<br />
<br />
真面目な性格らしく謀略に疎く、やがて!)小平に巧妙に利用されて「使い捨て」られた。<br />
<br />
華は舌鋒鋭く共産党幹部を批判することで有名で、「中国共産党の正当な担い手は農民と労働者ではないか」と言い続けた。<br />
<br />
こうも言った。<br />
<br />
「権力を掌握した後、いったい中国共産党は何をしたのか。腐敗、利権、人民への圧政、司法の独断運用、人権無視、権力の乱用ぶりを目撃していると、嘗ての国民党を同じであり、現在の国民党の方はもっと進歩しているではないか」。<br />
<br />
重病説が14日から飛び交い、華国鋒は北京医院に入院。危篤という。<br />
<br />
（註　桃は女偏。「蘇祷」の祷は「金」編です）＞（「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」　平成20年（2008年）８月18日（月曜日）<br />
<br />
条約の調印式には出てきたが、すぐに姿を消し、2度と再び公の席に姿を現さなくなった。死んだという知らせには接していない。（2007･06･24）<br />
<br />
2001年に華国鋒は中国共産党を脱党したと伝えられたが、2007年の第十七回党大会に人民服で出席し、白髪が注目された。ヒナ壇中央最後列の右端に座ったのが印象的だった。（宮崎正弘）<br />
<br />
文化大革命では湖南省の第１書記となり、毛沢東の忠実な部下として昇進した。公安部長から、1975年には国務院第１副総理（副首相）に就任、党内序列も第６位となる。毛沢東の人事バランスの結果とされる。<br />
<br />
＜毛沢東の庶子。1920年代、湖南省で農民運動を展開していた毛沢東が「桃」という女性に産ませた。戸籍上は「蘇祷」と名乗った。（註桃は女偏。「蘇祷」の祷は「金」編）＞この事は宮崎さんに言われるまで知らなかった。<br />
<br />
1976年1月には周恩来の死を承けて総理代理、党第１副主席。（総理代理に王洪文が有力視されていたが、それを抑えての就任だった）となった。さらに同年9月に毛沢東が亡くなると、党主席、中央軍事委員会主席に就任する。<br />
<br />
1976年4月30日、毛沢東から「あなたがやれば、私は安心だ」という委託を受けたとされている。しかし、中国共産党中央文献研究室の『毛沢東伝』では否定されている。<br />
<br />
これは当時毛沢東の私設秘書であった張玉鳳の手記を引用したもので、国際上の問題について尋ねた華国鋒に「既定の方針にしたがってやれ」「あなたがやれば私は安心だ」と言ったに過ぎず、事実に合わないとの見解を党は示している。<br />
<br />
しかしながら様々な文献の中では一貫して、以上の毛沢東の言葉は華国鋒が四人組の攻撃に耐え切れずに毛沢東に辞意を示したときに、声の出なくなった毛沢東が紙に書いたとされている。その後の政治局会議でその紙を政治局員らに見せ、攻撃を乗り切ったとされる。<br />
<br />
同年10月6日に、文化大革命の主導者であった江青や張春橋などの四人組を逮捕した。これは毛沢東の死後に激化していた党内対立を一気に解決し、文化大革命を事実上終結させるものとなった。<br />
<br />
1977年には「両個凡是」（２つの全て）の方針を示し、文化大革命には是々非々の立場を表明したが、かつては実権派として失脚・迫害されたトウ（?）小平などからの強い批判を浴びた。<br />
<br />
1978年8月8日、我々が北京を訪れた時、華国鋒は?小平から強い批判を浴びている時期だったらしい。なんとなく影が薄かった。外交官ではないが永らく政治記者だった私の勘はまだ正常だった。園田はそれを尊重してくれた。<br />
<br />
我々と日中平和友好条約を締結した後、1980年に首相を、翌1981年には党主席を辞任した。四人組ほど急進的でなかったものの、「文革色」の残る政治家であった華国鋒は、?小平らに激しい権力闘争を挑み、最終的には追い落とされたわけだ。<br />
<br />
ただし、その後も2002年11月に引退するまで中国共産党の中央委員を務めた。しかし外国メディアとの接触は断ち、中国国内でその動静を伝えられることは極めて希であったが、ある程度の政治的活動は認められていたと考えられている。<br />
<br />
首相や党主席に就任した時は文化大革命の末期で、混乱した中国社会の再建が急務であった。最初の行動が四人組の逮捕であり、その後も共産党の指導性を維持しつつ、社会の安定を取り戻そうとする試みを続けた。<br />
<br />
ただし、彼自身が文化大革命の時期に台頭し、毛沢東思想の信奉者であったため、四人組に連なる党内左派の排除は緩やかであり、その一方ではトウ（?）小平ら右派の台頭も抑え込めなかったため、党内では不安定な立場のままだった。<br />
<br />
その曖昧さは経済運営にも反映され、人民公社の解体は慎重に進められた。この時期は、中国がトウ（?）小平の指導で改革・開放政策による急速な経済発展へと進む前段階であったとも言える。<br />
<br />
党主席に就任した後は毛沢東の肖像画の隣に自らの肖像画を飾った。また個人崇拝の絵が存在している（トウ（?）小平の肖像画や絵はほとんど存在しない。自ら個人崇拝を禁じた）。<br />
<br />
毛沢東・周恩来時代の末期の外交路線を踏襲し、アメリカ合衆国との接近とソビエト連邦との対決を進めた。<br />
<br />
1979年1月にはアメリカ（ジミー・カーター大統領）との国交を樹立し、自らが「中国を代表する唯一の正統政府」であるという立場を認めさせた。<br />
<br />
ただし、アメリカはこの国交樹立によって自動的に外交関係が断絶した台湾の中華民国政府とも実質的な協力関係を維持したため、中国はアメリカによる対台湾軍事援助などを止めさせることは出来なかった。<br />
<br />
一方、ソビエト（レオニード・ブレジネフ共産党書記長）との対立は依然として厳しく、国境では人民解放軍の大軍がソビエトの侵攻に備えた。日中平和友好条約締結の際には、中国側がソビエトを念頭に「覇権主義への反対」を条文として盛り込むように要求し、「第三国」という表記で決着するという事態になった。<br />
<br />
また、1978年1月にソビエトの支援を受けたベトナムがカンボジアに侵攻し、ポル・ポト首相の民主カンプチアを倒すと、ポル・ポト政権と関係の深かった中国は激しく反発し、1979年1月には「懲罰」と称してベトナムに侵攻した（中越戦争）。<br />
<br />
ただし、人民解放軍は大きな損害を出し中途半端な状態で戦争を終わらせてしまい、軍事・外交の両面で得る物はなく終わった。その後も、カンボジア内戦ではポル・ポト派を支援し、ベトナムとの外交関係は断絶したままであった。<br />
<br />
これまで四人組の逮捕については、葉剣英・中央軍事委員会副主席が中心となって画策し、逡巡する華国鋒に決断を迫ったという見方があった。<br />
<br />
以後、?小平、陳雲などの反対を受け、次第に権力から外されていった。1978年12月の党11期3中全会で、?小平が最終的に権力を掌握。<br />
<br />
それでも華国鋒は、中華人民共和国国務院総理，国賓として1980年5月27日から6月1日までの予定で日本国を公式訪問した。谷牧副総理，黄華外交部長他が随行。一行は，日本国滞在中名古屋及び関西方面を訪問した。 <br />
<br />
華総理はまた，5月27日に皇居において天皇陛下に謁見した。大平総理とも会談した。しかし、帰国３ヵ月後の9月には総理は趙紫陽にとって代わられた。<br />
<br />
81年6月の11期6中全会では、文革を公式に断罪したものの、党主席もトウ（?）小平により胡耀邦にとって代わられた。同時期、日本では大平総理が急逝し、鈴木善幸政権が誕生した。<br />
<br />
失脚後も20年にわたって党中央委員の座にあったが、2002年11月の16全大会で完全引退した。出身地の山西省交城県にでもいるのだろうか。参考：『毛沢東秘録』（産経新聞社）及び「ウィキペディア」<br />
<br />
<a href="http://www.kajika.net/blog.html">杜父魚ブログの全記事・索引リスト</a>（８月１４日現在２１６１本）]]></content></entry><entry><title>イランから見ればロシアは主権国家を侵攻した　宮崎正弘</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.kajika.net/?eid=862605" /><id>http://blog.kajika.net/?eid=862605</id><issued>2008-08-18T11:35:24+09:00</issued><modified>2008-08-18T02:35:25Z</modified><created>2008-08-18T02:35:24Z</created><summary>グルジアＶＳロシアの軍事衝突の余波を警戒するイラン。この絶妙なタイミングにイラン核施設空爆があるのでは？

アジアタイムズ（8月16日付け）が珍しくイランの政局を分析している。

イランは嘗てグルジアを領有していた。いまもアゼルバイジャンを越えれば、隣り...</summary><author><name>古沢　襄</name></author><dc:subject /><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[グルジアＶＳロシアの軍事衝突の余波を警戒するイラン。この絶妙なタイミングにイラン核施設空爆があるのでは？<br />
<br />
アジアタイムズ（8月16日付け）が珍しくイランの政局を分析している。<br />
<br />
イランは嘗てグルジアを領有していた。いまもアゼルバイジャンを越えれば、隣りの領土である。<br />
<br />
イランのモッタキ外相は、ロシアのラブロフ外相と電話会談を行い「即時停戦と平和的解決」を訴えた。<br />
<br />
イランから見ればロシアは主権国家を侵攻したことになるが、国営イラン放送などはロシア批判と避けているという。<br />
<br />
十九世紀、イランとロシアとの条約（グリステン条約＝１８１３とトルクマンチャイ条約＝１８２８）によって、グルジアはロシア領に編入された。<br />
<br />
爾後、グルジアが独立したのは1991年、しかしロシア軍が撤退して、本当の独立を達成したのは2006年である。<br />
　<br />
イランの外交は「イラン・シックス」と呼ばれることがある。米・英・ロシア・仏・・中独の六カ国が優先順位であり、ＮＡＴＯの東方拡大はロシアとともに反対してきた。上海シックスにはオブザーバーで加わった。<br />
<br />
そのイランが核武装を急ぎ、最も脅威を受けるイスラエルが空爆の準備をし、サウジアラビアが米国とイスラエルに空爆を密かに要請した節もあり、中東情勢は本日も複雑怪奇。<br />
<br />
それにしてもイランのグルジア問題への関心は尋常ではない。<br />
　　　　<br />
<a href="http://www.kajika.net/blog.html">杜父魚ブログの全記事・索引リスト</a>（８月１４日現在２１６１本）]]></content></entry><entry><title>井泉をイセンと読む江戸っ子  渡部亮次郎</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.kajika.net/?eid=862335" /><id>http://blog.kajika.net/?eid=862335</id><issued>2008-08-17T19:26:41+09:00</issued><modified>2008-08-17T10:26:42Z</modified><created>2008-08-17T10:26:41Z</created><summary>私は少年時代、砂糖を舐めすぎて脚気（ビタミンB1欠乏症）になり、心臓が危なくなったことがある。そこで夏はできるだけ「とんかつ」を「井泉」で食べ、ビタミンB1を補うようにしている。

砂糖は消化にビタミンB1を大量に消費する。疲労回復に特段の効果のある砂糖だが...</summary><author><name>古沢　襄</name></author><dc:subject /><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[私は少年時代、砂糖を舐めすぎて脚気（ビタミンB1欠乏症）になり、心臓が危なくなったことがある。そこで夏はできるだけ「とんかつ」を「井泉」で食べ、ビタミンB1を補うようにしている。<br />
<br />
砂糖は消化にビタミンB1を大量に消費する。疲労回復に特段の効果のある砂糖だが舐めすぎるとビタミンB1欠乏症の脚気になる危険があるわけだ。<br />
<br />
そこへ行くととんかつの豚肉はビタミンB1を多量に含んでいるから、夏バテ気味のときはとんかつ屋に走るわけだ。8月16日の病院で待たされ続けたので、上野の「井泉」本店に行ってきた。<br />
<br />
ここは「お箸で切れる柔らかなとんかつ」という初代石坂一雄の言葉とともに、昭和5年上野の地に“井泉”は誕生した。爾来,のれん分けした人、独立して行った人には「井泉」か「泉」の屋号が与えられる。今や主たる都市には暖簾が展開している。<br />
<br />
ところで「井泉」の読み方である。創業者石坂一雄は俳句読みの趣味人でもあったので、有名な俳人萩原井泉水にちなんで「井泉＝せいせん」を店の名前とした。1929年、今から約80年前のことだ。<br />
<br />
ところが当時、「豚（とん）カツレツ＝とんかつ」を食する江戸っ子で「井泉」を「せいせん」と読める趣味人は極めて少なかったらしく、客は誰もが「いせん」と呼んだ。「ヒル飯ゃイセンにしようぜ」と「いせん」が定着してしまった。<br />
<br />
「荒城の月」の作詞者土井（つちい）晩翠がいくら「土井（どい）じゃない」と主張しても「つちいばんすい」とよんでもらえず、晩年はとうとう「どいばんすい」を認めたように。私が「せいせん閉口」と言っても家人は知らん振りをする。<br />
<br />
ギヨエテというかゲーテみたいだ。ショパンをチョピンを言うが如し。江戸っ子は気風（きっぷ）はともかく学の方では田舎ものが多かったらしい。井泉をいせんと読んだのでは明らかな「湯桶読み」で「学」のある人はいちいち指摘して厭がられた。それで沈黙。無学派が「いせん」にしてしまって80年が過ぎた。<br />
<br />
萩原井泉水（俳人）はぎわらせいせんすい/Hagiwara Seisennsui 1884〜1976　東京都生まれ。名は藤吉。別号に愛桜、随翁がある。<br />
<br />
河東碧梧桐の新傾向俳句運動に参加し、「層雲」を創刊する。句集『原泉』『長流』がある。門人に種田山頭火・尾崎放哉らがいる<br />
<br />
湯桶読み。湯桶のように,漢字二字の熟語の上の字をお「訓」で、下を「音」で読む読み方。他に消印（けしいん）、手本（てほん）など、反対に「重箱読み」というのがある。<br />
<br />
<a href="http://www.kajika.net/blog.html">杜父魚ブログの全記事・索引リスト</a>（８月１４日現在２１６１本）]]></content></entry><entry><title>中国特派員を縛る協定  渡部亮次郎</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.kajika.net/?eid=862331" /><id>http://blog.kajika.net/?eid=862331</id><issued>2008-08-17T19:18:46+09:00</issued><modified>2008-08-17T10:18:47Z</modified><created>2008-08-17T10:18:46Z</created><summary>中国特派員をがんじ搦めに縛る協定の存在を知っていますか。この協定があるので、中国に派遣されたわが国特派員たちは取材の自由をまったく失い、監視されつつ、国外追放処分に怯えながら記事を送って来る。

その記事が往々にして中国のお先棒かつぎの色彩を帯びたり、...</summary><author><name>古沢　襄</name></author><dc:subject /><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[中国特派員をがんじ搦めに縛る協定の存在を知っていますか。この協定があるので、中国に派遣されたわが国特派員たちは取材の自由をまったく失い、監視されつつ、国外追放処分に怯えながら記事を送って来る。<br />
<br />
その記事が往々にして中国のお先棒かつぎの色彩を帯びたり、ゴマすりだったりする事は当然である。国外退去ともなれば中国語記者はそれで人生を閉ざされるのだから神経のやせ細る思いで自己規制に身を更に削るのである。<br />
<br />
日中記者交換協定がそれである。一般の人は見たことも聞いたことも無いはずである。だが日本と中国の間で取り交わされた、日中双方の記者を相互に常駐させる取り決めのこと。正式名は「日中双方の新聞記者交換に関するメモ」は厳然として日本を縛っているのである。<br />
<br />
?日本政府は中国を敵視してはならない<br />
?米国に追随して「２つの中国」をつくる陰謀を弄しない<br />
?中日両国関係が正常化の方向に発展するのを妨げない<br />
<br />
すなわち、中国政府（中国共産党）に不利な言動を行なわない・日中関係の妨げになる言動を行なわない・台湾（中華民国）独立を肯定しないことが取り決められている。<br />
<br />
違反すると、記者が中国国内から追放される。中国に対する正しい報道がなされていないと批判があるのはこの協定のためだ。<br />
<br />
始まりは国交正常化前の1964（昭和39年4月19日、当時LT貿易を扱っていた高碕達之助（元通産大臣）事務所と廖承志（早稲田大学卒業）事務所が、その会談において、日中双方の新聞記者交換と、貿易連絡所の相互設置に関する事項を取り決めた。<br />
<br />
会談の代表者は、松村謙三・衆議院議員（自民党）と廖承志・中日友好協会会長。この会談には、日本側から竹山祐太郎、岡崎嘉平太、古井喜実、大久保任晴が参加し、中国側から孫平化、王暁雲が参加した。<br />
<br />
要するに日中国交正常化に弱腰な自民党政府にシビレを切らした新聞、通信、放送各社が自民党内親中派の松村氏らの尻を叩いて結ばせた民間協定である。<br />
<br />
記者交換に関する具体的な事務は、入国手続きを含めて廖承志事務所と高碕事務所を窓口として連絡し、処理する。 <br />
<br />
交換する新聞記者の人数は、日中とも８人以内とし、１社１人の記者を派遣することを原則とする。<br />
<br />
第１回の記者の派遣は、1964年６月末に実現することをめどとする。 記者の相手国における１回の滞在期間は、１年以内とする。 <br />
<br />
相手方新聞記者の安全を保護するものとする。 取材活動に便宜を与えるものとする。（嘘吐きは協定の始まり）。<br />
<br />
双方の記者は駐在国の外国新聞記者に対する管理規定を順守するとともに、駐在国が外国新聞記者に与えるのと同じ待遇を受けるものとする。相手側新聞記者の通信の自由を保障する。 <br />
<br />
かねて周首相と松村氏との間に意見一致をみた両国友好親善に関する基本５原則、すなわち両国は政治の体制を異にするけれども互いに相手の立ち場を尊重して、相侵さないという原則を松村・廖承志会談において確認し、この原則のもとに記者交換を行なうものである。 <br />
<br />
協定は猫を被っていた｡1966年に走資派排除の文化大革命が始まるとキバを剥き始めるが、日本側はそれも受け入れてしまう。佐藤栄作内閣下の1968（昭和43）年3月6日、新聞記者の相互交換についても、発表した会談コミュニケに示された原則を遵守し、日中両国民の相互理解と友好関係の増進に役立つべきものであると一致して確認した。<br />
<br />
問題はコミュニケの内容である。<br />
<br />
「双方は、日中両国は近隣であり、両国国民の間には伝統的な友情があると考え、日中両国国民の友好関係を増進し、両国関係の正常化を促進することは、日中両国国民の共通の願望にかなっているばかりでなく、アジアと世界の平和を守ることにも有益であると認めた。 <br />
<br />
中国側は、われわれの間の関係を含む中日関係に存在する障害は、アメリカ帝国主義と日本当局の推し進めている中国敵視政策によってもたらされたものであると指摘した。 <br />
<br />
日本側は、中国側の立場に対して深い理解を示し、今後このような障害を排除し、日中関係の正常化を促進するために更に努力をはらうことを表明した。 <br />
<br />
中国側は、中日関係における政治３原則と政治経済不可分の原則を堅持することを重ねて強調した。日本側は、これに同意した。<br />
<br />
双方は、政治経済不可分の原則とは、政治と経済は切りはなすことが出来ず、互いに関連し、促進しあうものであり、政治関係の改善こそ経済関係の発展に役立つものであるとの考えであることを認めた。 <br />
<br />
双方は、政治三原則と政治経済不可分の原則は、日中関係において遵守されるべき原則であり、われわれの間の関係における政治的基礎であると一致して確認し、上記の原則を遵守し、この政治的基礎を確保するためにひとつづき努力をはらう旨の決意を表明した」。 <br />
<br />
池田内閣よりタカ派の佐藤内閣を意識し、国交正常化に悲観的になった中国側の高姿勢のコミュニケを呑まされた上に、「記者交換の人数をそれぞれ８名以内からそれぞれ５名以内に改めることに一致して同意した」のである。<br />
<br />
このように協定は日本側は記者を北京に派遣するにあたって、中国の意に反する報道を行わないことを約束したものであり、当時北京に常駐記者をおいていた朝日、読売、毎日新聞、NHKなどや、今後北京に常駐を希望する報道各社にもこの文書を承認することが要求された。<br />
<br />
以上の条文を厳守しない場合は中国に支社を置き記者を常駐させることを禁じられた。<br />
<br />
この協定に関連して、文化大革命期に産経新聞を除く新聞各社は、中国当局からの台湾支局閉鎖の要求をのんで中国に支局を開局したという経緯がある。<br />
<br />
国交の回復した以後の1974年1月5日には両国政府間で日中貿易協定が結ばれ、同日には「日中常駐記者交換に関する覚書」（日中常駐記者交換覚書）も交わされた。 現在に至るまで、中国へ不利な記事の報道や対中ODAに関する報道は自粛されている。<br />
<br />
日本政府が中国側記者を国外退去処分にした事はいまだ嘗て無いが中国からの国外退去処分の事件はある。産経新聞の北京支局長・柴田穂は、中国の壁新聞（街頭に張ってある新聞）を翻訳し日本へ紹介していたが、1967年追放処分を受けた。この時期他の新聞社も、朝日新聞を除いて追放処分を受けている。<br />
<br />
＜■唸声日本／産経新聞・斎藤勉編集局長、大いに語る <br />
当時の北京支局長・柴田穂氏は壁新聞(当局に都合の悪いことも)を次々と翻訳し日本へ紹介、1967年産経・毎日・読売の追放、1970年共同追放で朝日新聞以外は全ていなくなった。<br />
<br />
1998年、31年ぶりに特派員の再開となるが、これは中国側からの要望でもある。特派員追放からは台北から大陸情報を得ていたので中共ご用達の朝日とは違った情報を掴んでいた。これが中共の癇に障ったための再開でもある <br />
<br />
当初、中国側は台北支局を閉じ、北京支局にまとめることを条件としていたが、これに産経は応じず、中国総局(北京4名・上海1名)との呼称で譲歩をみせた。台北支局より総局が上と言う中国人の面子を利用したのである。＞。2007/09/24　 00:17<br />
<br />
80年代には共同通信社の北京特派員であった辺見秀逸記者が、中国共産党の機密文書をスクープし、その後処分を受けた。<br />
<br />
90年代には読売新聞社の北京特派員記者が、「1996年以降、中国の国家秘密を違法に報道したなどとして、国外退去処分を通告された。読売新聞社は、記者の行動は通常の取材活動の範囲内だったと確信している、としている。<br />
<br />
要するに国交正常化(1972年）以後、中国における日本人ジャーナリストの活動は制限を解かれたとするのは全くの誤解であり、取材の自由は殆ど無いことに変わりは無い。<br />
<br />
国交正常化前に他社を出し抜いて特派員を派遣したいとかいた欲の足元を見た中国側の「勝利」であり、日本側各社はいうなれば自業自得としかいいようが無い。福田康夫内閣の叩頭外交を批判できないのも、その延長上だからである。出典: フリー百科事典『ウィキペディア（Wikipedia）』<br />
<br />
<a href="http://www.kajika.net/blog.html">杜父魚ブログの全記事・索引リスト</a>（８月１４日現在２１６１本）]]></content></entry><entry><title>華国鋒元国務院総理が危篤　宮崎正弘</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.kajika.net/?eid=862329" /><id>http://blog.kajika.net/?eid=862329</id><issued>2008-08-17T19:06:45+09:00</issued><modified>2008-08-17T10:06:45Z</modified><created>2008-08-17T10:06:45Z</created><summary>華国鋒元国務院総理、元軍事委員会主席が危篤。「共産党は腐りきっている」と批判し続けた骨の髄までの共産主義者。

この人の名前を聞くと何故か懐かしい。

華国鋒は毛沢東の庶子。1920年代、湖南省で農民運動を展開していた毛沢東が「桃」という女性に産ませた。戸...</summary><author><name>古沢　襄</name></author><dc:subject /><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[華国鋒元国務院総理、元軍事委員会主席が危篤。「共産党は腐りきっている」と批判し続けた骨の髄までの共産主義者。<br />
<br />
この人の名前を聞くと何故か懐かしい。<br />
<br />
華国鋒は毛沢東の庶子。1920年代、湖南省で農民運動を展開していた毛沢東が「桃」という女性に産ませた。戸籍上は「蘇祷」と名乗った。<br />
<br />
革命成立後、華国鋒は湖南省書記に抜擢され、その後、同省公安部長を歴任後、中央政界へ。副首相、軍事委員会主席とトントン拍子に出世してゆく。<br />
<br />
周恩来病没直後には首相代行をつとめた。毛沢東の子供ゆえに、である。<br />
<br />
歴史的役割は、毛沢東がいまわの際に華を呼んで「君がやってくれるのなら安心だ」と遺言した（と言われるが、これは伝説になった）。<br />
<br />
華国鋒は直ちに軍をおさえていた葉剣英、党をおさえていた李先念と計り、四人組を逮捕。1976年、華政権が成立した。<br />
<br />
だが華国鋒政権には「これ」という特色がなかった。ヴィジョン欠落、戦略性が希薄な人物だからであろう。まじめな性格らしく謀略に疎く、やがてトウ小平に巧妙に利用されて「使い捨て」られた。<br />
<br />
華は舌鋒鋭く共産党幹部を批判することで有名で、「中国共産党の正当な担い手は農民と労働者ではないか」と言い続けた。<br />
<br />
こうも言った。<br />
<br />
「権力を掌握した後、いったい中国共産党は何をしたのか。腐敗、利権、人民への圧政、司法の独断運用、人権無視、権力の乱用ぶりを目撃していると、嘗ての国民党を同じであり、現在の国民党のほうはもっと進歩しているではないのか」。<br />
<br />
2001年に華国鋒は中国共産党を脱党したと伝えられたが、昨年の第十七回党大会に人民服で出席し、白髪が注目された。<br />
<br />
ヒナ壇中央最後列の右端に座ったのが印象的だった。<br />
<br />
この第十七回共産党大会で「次期総書記」と目される男が最終日に登場する。<br />
<br />
習近平である。それを事前に知っていたら華はなんと言っただろう？<br />
<br />
習はところで、七月初旬に香港を訪問したが、驚き桃の木は、香港政庁がこの人物を胡錦濤よりも上位に扱ったことだ。<br />
<br />
香港ワンチャイの豪華ホテルを貸し切りとして一般客を閉め出したのだ。警備も胡錦濤のときより厳重にして次期指導者にごまをすった。<br />
<br />
華国鋒は次の発言をしているという。　<br />
<br />
「いまの共産党は腐れ切っている。利権をむさぼるだけの政党に成り下がって、その改革も出来ない胡錦濤よ、権力を手放して党から去れ、と書簡を送ったとされる」（博訊新聞網、8月17日付け）。<br />
<br />
重病説が14日から飛び交い、華国鋒は北京医院に入院。危篤という。懐かしき人物を思い出した。<br />
<br />
<a href="http://www.kajika.net/blog.html">杜父魚ブログの全記事・索引リスト</a>（８月１４日現在２１６１本）<br />
]]></content></entry><entry><title>上海でまたバスに爆弾テロか　宮崎正弘</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.kajika.net/?eid=862183" /><id>http://blog.kajika.net/?eid=862183</id><issued>2008-08-17T14:25:29+09:00</issued><modified>2008-08-17T05:25:29Z</modified><created>2008-08-17T05:25:29Z</created><summary>浦東地区のバスが突如、大音響とともに炎上。

８月１５日午前１１時３２分、上海の金融街浦西から大橋へ向かっていた公共バスが、突如大音響と共に爆発し、火災が発生、乗客３０数名は逃げ延びたらしい。死者はいない模様。

上海では五月五日にも公共バスが爆破し、...</summary><author><name>古沢　襄</name></author><dc:subject /><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[浦東地区のバスが突如、大音響とともに炎上。<br />
<br />
８月１５日午前１１時３２分、上海の金融街浦西から大橋へ向かっていた公共バスが、突如大音響と共に爆発し、火災が発生、乗客３０数名は逃げ延びたらしい。死者はいない模様。<br />
<br />
上海では五月五日にも公共バスが爆破し、十五名が死傷した。<br />
<br />
五輪サッカー会場の上海体育館付近は異常な警戒がつづき、２０１０年の上海万博会場も、まだ土地基盤整備工事の段階だが、ガードマンが見張っている。<br />
　　　　<br />
<a href="http://www.kajika.net/blog.html">杜父魚ブログの全記事・索引リスト</a>（８月１４日現在２１６１本））]]></content></entry><entry><title>ブッシュが日本を救った　宮崎正弘</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.kajika.net/?eid=862113" /><id>http://blog.kajika.net/?eid=862113</id><issued>2008-08-17T05:52:45+09:00</issued><modified>2008-08-16T20:52:46Z</modified><created>2008-08-16T20:52:45Z</created><summary>高山正之『ジョージ・ブッシュが日本を救った』（新潮社）。この本は大評判『週刊新潮』の巻末激辛コラム「変見自在」をまとめた第三集。

『サダムフセインは偉かった』、『スーチー女史は善人か』と前二作が日本の保守論壇、読書人に喝采と共に受け入れられ、本書が第...</summary><author><name>古沢　襄</name></author><dc:subject /><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[高山正之『ジョージ・ブッシュが日本を救った』（新潮社）。この本は大評判『週刊新潮』の巻末激辛コラム「変見自在」をまとめた第三集。<br />
<br />
『サダムフセインは偉かった』、『スーチー女史は善人か』と前二作が日本の保守論壇、読書人に喝采と共に受け入れられ、本書が第三弾。そのあと来年二月には四冊目もでる（らしい）。<br />
<br />
高山さんの読者ならすでにおわかりのように、基本はかなりの反米論調で、しかもアメリカの押しつけた歴史観、東京裁判史観断固拒否。イラク戦争は間違い、スーチー女史を英雄視するのも間違いと声高に主張してきた高山氏。ところがなぜ今度の題名は「ジョージ・ブッシュが日本を救った」ことになるの？<br />
<br />
その答えを書いてしまったら本書を繙かないひとも出るだろうが、要するにクリントン批判が前段にあって、悪徳弁護士たちのマッチ・ポンプという社会の歪んだ構造を理解しないと、この方程式は解きにくい。<br />
<br />
アメリカに進出した日本企業に難癖をつけろと司法当局にクリントンが命じ、日本から絞るだけカネをしぼったのがクリントン政権の隠れた対日戦略だった。<br />
<br />
そうそう、あの閣僚名簿を思い出したが、９５％が弁護士だったっけ。訴訟慣れしていないトヨタ、旭光学、ミノルタ、三菱自動車。片っ端から難癖を付けられての敗訴。クリントン系列のアメリカ人悪徳弁護士らはデタラメな論法で日本を攻めに攻めた。<br />
<br />
そして驚くなかれ、朝日新聞は日本企業が困惑し困窮していても不法な裁判を論評しなかった。結局、朝日新聞批判が基調なのである。<br />
<br />
そして、ブッシュはまるで百八十度姿勢を転換し、以後日本企業への悪質は裁判沙汰がピタリと止んだ。その経緯がいくつかのページに述べられている。だから本書の表題がでてくる。<br />
<br />
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　２００２年　　３２０９人
　　　０３　　　３７７８
　　　０４　　　５２６４　
　　　０５　　　５８７８
　　　０６　　　８２７２
　２００７年　１０２６２

この数字は、日本へやってきた中国人留学生のなかで...</summary><author><name>古沢　襄</name></author><dc:subject /><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[ちなみに下記の数字をごらん頂きたい。<br />
　<br />
　２００２年　　３２０９人<br />
　　　０３　　　３７７８<br />
　　　０４　　　５２６４　<br />
　　　０５　　　５８７８<br />
　　　０６　　　８２７２<br />
　２００７年　１０２６２<br />
<br />
この数字は、日本へやってきた中国人留学生のなかで、卒業後も、日本で就職した人の数。つまり日本の就職戦線でライバル日本人を蹴落として、職をえた中国人の異常な増え方に注目していただきたい。他の国の留学生居残り組を含めない。<br />
<br />
かれらは日本の若者の職場を奪っていることに結果するのか？ちなみに下記に掲げるのが、彼ら彼女らの昨年の就職先の一覧である。<br />
<br />
　翻訳・通訳　　　　　３４３１人（３３・４％）<br />
　販売・営業　　　　　１５７４人（１５・３％）<br />
　情報処理　　　　　　１２４２人（１２・１％）<br />
　海外業務　　　　　　　６５６人（　６・４％）<br />
　教育　　　　　　　　　５４１人（　５・３％）<br />
　ほか　　　　　　　　２８１８人<br />
　合　　計　　　　　１０２６２人<br />
　（数字の出展は『留学生新聞』０８年８月１５日号より）。<br />
<br />
▼現実を直視する必要があるのでは？<br />
これらの統計が意味することは日本企業（中国・台湾企業の日本法人を含めて）が、むしろ積極的に中国人留学生を採用しているという“実態である。<br />
<br />
翻訳通訳は中国人の強みである。日本企業は通訳をほしがる。法律事務所や特許事務所は優秀な翻訳家が欲しい。社内で日本人が中国語を習得しようとする意欲を欠落させているからである。<br />
<br />
営業・販売は中国人の積極性を買われた。日本人よりエネルギーがあるからだ。五輪をみても、あれほどの闘魂をみせて、メダルを獲得していく中国人のさまを見ていると、ある種感慨が湧くというものだろう。<br />
<br />
情報処理は、逆に中国人のコンピュータ・スキルを求め、しかも安く雇えるからという企業のニーズにマッチしているからだ。<br />
<br />
つまり、中国人留学生にとっては中国に帰国しても溢れる新卒の群れに、コネがないと無職転落か、あっても３ｋ現場の労働者や、サウナの番人になるくらいなら日本で永住したほうが良いと計算したからである。<br />
<br />
まだある。<br />
<br />
かれらはたくましく日本籍の配偶者を捜し求め、国籍を取得し、その数がすでに十万人を越えている！<br />
<br />
この現実を目撃して、むしろ歴史のイロニーを感得するのである。<br />
<br />
というのも遣隋使・遣唐使が日本から夥しくシナへ仏教を学びに行った。最澄、空海、道元という巨星も。<br />
<br />
しかし同時にシナから日本へやってきた「遣日使」が、じつは日本からの留学生をはるかにしのぐ人数であり、そのうえ彼らの大半が日本に居座って帰らなかった。この歴史的事実がなぜか知られていない。<br />
<br />
日本人は阿倍仲麻呂にしても望郷の念やみがたく、ついには帰国船がベトナムに流されて帰国の夢を果たせなかったけれども帰国して祖国に貢献したいと念じた。<br />
<br />
他方、鑑真和尚に代表される遣隋使は、そのような野心、使命感は淡かったのだ。<br />
<br />
１０００万人の移民受け入れに反対する諸兄！抽象的反対ではもはや時間的猶予は限られている。具体的な戦術が必要である。<br />
<br />
遣隋使の打ち切りを提案した「現代の菅原道真」が必要だろうが、同時にすでに日本に帰化した中国人を、「第二の鑑真」とする努力も必要ではないのか。<br />
　　　　　　　　<br />
<a href="http://www.kajika.net/blog.html">杜父魚ブログの全記事・索引リスト</a>（８月１４日現在２１６１本）]]></content></entry><entry><title>不気味な遊泳つづける習近平　宮崎正弘</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.kajika.net/?eid=861540" /><id>http://blog.kajika.net/?eid=861540</id><issued>2008-08-15T17:10:59+09:00</issued><modified>2008-08-15T08:10:59Z</modified><created>2008-08-15T08:10:59Z</created><summary>次期総書記に最有力の習近平はなぜ静かにしているのか？それでも実績を着実に積み上げて政治家の地歩を安定させている。

習近平は国家副主席に就任してから最初の外国訪問を北朝鮮にした。なぜか。「共産主義ですよ！私は！」と内外に見せつけるためである。

中国共...</summary><author><name>古沢　襄</name></author><dc:subject /><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[次期総書記に最有力の習近平はなぜ静かにしているのか？それでも実績を着実に積み上げて政治家の地歩を安定させている。<br />
<br />
習近平は国家副主席に就任してから最初の外国訪問を北朝鮮にした。なぜか。「共産主義ですよ！私は！」と内外に見せつけるためである。<br />
<br />
中国共産党のヒエラルキーで、実質第六位（政治局常務委員、序列六位）とはいえ、次期後継と言われれば言われるほど、中国で危ないポジションはないからだ。<br />
<br />
毛沢東は次期後継を自ら指名しておきながら次々と失脚させた。<br />
<br />
劉少奇は河南省開封の病院で凄惨なリンチのあと息を引き取った。<br />
<br />
林彪はなぞの「航空機事故」で死亡。周恩来は茶坊主に徹したが、最後は癌とわかっても満足な治療を受けられないように毛沢東は命じていた（ユン・チアン『マオ』）<br />
<br />
不死身のカムバックを果たしたトウ小平は、次期後継の胡耀邦を失脚させ、つぎに趙紫陽に天安門事件の責任を取らせて失脚させ、さらに楊尚昆兄弟を引退に追い込み、傀儡江沢民を後継に指名したが、江沢民に絶対にキングメーカーのポストを与えず『次の次』は胡錦濤だと言い残して逝った。<br />
<br />
胡錦濤自身欲する人事は、次期後継主席に自派の李克強を視野に入れてきたが、李自身の動きが鈍く、また江沢民残党ならびに上海派、太子党の陰湿な抵抗に遭遇、土壇場で曽慶紅が自らの引退と引き替えに、太子党の習近平を送り込んできた。<br />
<br />
習はながらく浙江省書記、いきなり上海市書記に抜擢され、さらに三段跳びで中央政治局常務委員に加わる。　<br />
<br />
しかし三月の全人代で、この習金平に対して、胡錦濤は「軍事委員会副主任」のポストを与えなかった。<br />
<br />
軍を動かせないポストのままとして、しかも、習を北京五輪責任者とした。もし五輪が失敗したら、習に責任を取らせ、上海派と太子党をコーナーへ追い込む計算がある。<br />
<br />
▼習近平はしたたか<br />
かれは冒頭にのべたように『私は共産主義を信奉していますよ』とでも宣言かするように、まず北朝鮮を訪問した。儀礼的儀式的とはいえ、中国外交において、この意味は大きい。江沢民も胡錦濤も、総書記就任後の早い時期に平壌を訪問しているからだ。<br />
<br />
北京五輪ではブッシュ大統領、プーチン、サルコジ、福田などなど胡錦濤が表舞台で世界の指導者と会見するのは国家主席であれば当然であるが、習錦平は意図的にか目立たず、しかし周到かつ着実に外交の檜舞台にあらわれている。<br />
<br />
まず習近平は、ブッシュ大統領と個別会談をもち、ついで金永南、北朝鮮代表とも面談した。<br />
<br />
カタール大統領、ケニア大統領、イラン大統領らとも個別に面談し、歓迎会ではメインのテーブルを避けてモンゴル、スイスの元首らと同席だった。<br />
<br />
また「太子党」ということで、ベルギー、デンマーク、オランダ、スペイン、タイ、トンガの王室と面会し「王室外交」を繰り広げた。<br />
<br />
だが、これらの習の外交は写真を人民日報に掲載させず、みごとに目立たない役割を演じきったのである。<br />
<br />
不気味な遊泳をつづける、この習近平は人心の収攬に長けていると言われる。<br />
　　　　　　　　<br />
<a href="http://www.kajika.net/blog.html">杜父魚ブログの全記事・索引リスト</a>（８月１４日現在２１６１本）]]></content></entry><entry><title>ベーブルースとプレスリー  渡部亮次郎</title><link rel="alternate" type="text/html" href="http://blog.kajika.net/?eid=861508" /><id>http://blog.kajika.net/?eid=861508</id><issued>2008-08-15T14:41:11+09:00</issued><modified>2008-08-15T05:41:12Z</modified><created>2008-08-15T05:41:11Z</created><summary>“ベーブ”ジョージ・ハーマン・ルース（George Herman “Babe” Ruth,とエルヴィス・アーロン・プレスリー （Elvis Aaron Presley の命日が同じ8月16日なのである。

片方はアメリカ合衆国メィジャーリーグのプロ野球選手（1948年没）であるとともに国民的なヒーローでもあ...</summary><author><name>古沢　襄</name></author><dc:subject /><content mode="escaped" type="text/html" xml:lang="ja"><![CDATA[“ベーブ”ジョージ・ハーマン・ルース（George Herman “Babe” Ruth,とエルヴィス・アーロン・プレスリー （Elvis Aaron Presley の命日が同じ8月16日なのである。<br />
<br />
片方はアメリカ合衆国メィジャーリーグのプロ野球選手（1948年没）であるとともに国民的なヒーローでもあり（1977年没）、アメリカのロックンロールミュージシャン。<br />
<br />
キング・オブ・ロックンロールまたはキングと称され、ギネス・ワールド・レコーズでは「最も成功したソロ・アーティスト」として認定されている。<br />
<br />
ベーブルースはアメリカ野球殿堂入りを果たした5人の中の1人で、ホームラン50本以上のシーズン記録を初めて立てた選手でもある。1927年に記録したシーズン60ホームランの記録は、1961年にロジャー・マリスによって破られるまで、34年間最高記録であった。<br />
<br />
少年時代のベーブは、腕白坊主で、学校をサボっては通りをうろつき、非行に手を染めた悪ガキ。7歳ごろには両親の手には負えなくなり、「セント・メアリー少年工業学校」という名の矯正学校に送られた。<br />
<br />
そこで、ローマ・カトリックの神父、ブラザー・マシアスに野球を教えられたことがベーブの少年時代に決定的な影響をもたらすことになる。<br />
<br />
ルースは、矯正学校の野球チームでは肩の強さから最初は捕手、後に左腕投手として活躍した。<br />
 <br />
プロ入りして1917年にも左腕投手ルースは大活躍を見せ、24勝13敗の成績であったが、特筆すべきはルースが徐々に強打者としての片鱗を見せ始めたことであり、打率.325、安打数40のうち11本の長打を放っている。<br />
<br />
驚異的な長打率.847は、バリー・ボンズが2001年に更新するまで、およそ80年間以上誰にも破られなかった。<br />
<br />
1921年に、ルースはコロンビア大学に打撃に関する研究のため招かれた。その結果は、素晴らしいものであった。研究者は、ルースが最も強打できるコースは外角ひざ上の高さであることを発見した。<br />
<br />
さらに、完璧な打撃をした場合のスイングスピードは秒速34メートルで、ボールの飛距離は140から150メートルに達するということである。<br />
<br />
異るサイズの小さな穴に棒を差し込んでいくという根気に関する臨床試験では、ルースは500人の被験者中最高位を示した。ルースの目は、暗室で点灯する電球に対して常人よりも20ミリ秒早く反応した。<br />
<br />
このことは、投手の手から投じられたボールの見極めに極めて有効であった。科学は、野球ファンならば周知の次の事実について確証を与えた。<br />
<br />
すなわち、ベーブ・ルースは、超自然的な能力を生まれつき持っているという事実である。<br />
<br />
1948年6月13日にヤンキースは、ルースの背番号3をチーム史上2番目の永久欠番に指定した（ちなみに第一号はルー・ゲーリッグである）。<br />
<br />
この欠番セレモニーでのルースは、癌による闘病生活を送っていた最中で、医者に支えられる形での登場となり、これが公に見せた最後の姿となった。<br />
<br />
このセレモニーの2ヵ月後の8月16日に、ルースは癌の悪化によりニューヨークの病院で没した。53歳、まだ早い死だった。葬儀は思い出深いヤンキー・スタジアムで執り行われた。<br />
<br />
現在、ニューヨークのホーソーンにあるゲイト・オブ・ヘヴン墓地に彼の墓がある。<br />
<br />
通算本塁打714本は不滅の記録といわれたが、ハンク・アーロンに破られた。しかし、通算長打率.690と通算OPS1.146は現在も破られていない世界記録である。ボルティモア・ダウンタウンのエモリープレース216にベーブルース記念館がある。<br />
<br />
Elvis Presley by Bottelhoエルヴィス・アーロン・プレスリー （Elvis Aaron Presley, 1935年1月8日―1977年8月16日）は、音楽史に最も影響を与えた人物の1人。<br />
<br />
世界の若者にロックンロールによって多大な影響を与え、後期になるとラスベガスの舞台で、カントリーやゴスペル、バラードなどを歌い、万人に愛されるシンガーとなった、戦後米国の最大のスターである。<br />
<br />
黒人のリズム＆ブルースと白人のカントリー＆ウェスタンを融合することによって、今までにない新しい音〈ロック〉を誕生させ、広めた人物として知られる。彼に影響された数多くのアーティスト達によって、後に音楽のジャンルが増えていった。<br />
<br />
歌いながらヒップを揺らすその歌唱スタイルから「Elvis the Pelvis（骨盤のエルヴィス）」の愛称で呼ばれるが、アメリカのバラエティー番組『エド・サリバン・ショー』の3度目の出演の際には、視聴者の抗議に配慮した番組関係者が意図的にエルヴィスの上半身だけを放送したというエピソードが伝えられている。<br />
<br />
彼は2005年10月27日発表の米経済誌フォーブスによると、2004年10月から1年間の印税等の収入は4500万ドル（約51億9000万円）に上った。<br />
<br />
2007年には4900万ドル（約56億円)で再び首位を奪回した。<br />
<br />
彼には双子の兄弟ジェシー・ガーロン・プレスリーがいたが、誕生時に死亡している。<br />
<br />
1977年8月16日にテネシー州メンフィスの自宅、グレースランドで死去した。<br />
<br />
ガールフレンドのジンジャー・オールデンによって寝室のバスルームの床に倒れているところを発見され、バプテスト記念病院へ搬送されたが、医師は午後3:30に死亡を確認した。42歳であった。検死後、死因は処方薬の極端な誤用による不整脈と公式に発表された。<br />
<br />
酒も煙草もやらない。たまに葉巻を吸う程度である。コーヒーや炭酸飲料、ピーナッツバターとバナナのサンドイッチが大好きで、毎日の様に食していた。<br />
<br />
ただし、このサンドイッチはさらに多量のバターをひいたフライパンで焼いた物であり、当然ながら高カロリーな食べ物で、エルヴィスが30代以降体調を崩して行く一因になったのではないかという指摘もある。 <br />
<br />
1965年8月27日に、ロサンゼルスのエルヴィスの邸宅でエルヴィスとビートルズは１度きりの会見を果たす。対面の場では、登場したエルヴィスの姿に見惚れしたメンバーに対し、即興演奏が始まった。<br />
<br />
エルヴィスは習いたてのベースを演奏し、ジョンとジョージはギター、ポールはピアノを演奏した。リンゴはドラムキットが無かったため演奏してはいない。<br />
<br />
エルヴィスは彼らの曲も歌い、「君たちのレコードは全部持ってるよ」と言った。なにより惜しい事は、当時音楽界に於いて最も注目すべきこの会見を録音したテープが存在しないことである。 <br />
<br />
F1チームだったB・A・Rの元オーナークレイグ・ポロックがかなり古いハーレー・ダビッドソンを約60万円で購入したところ、すぐ故障したので修理に出した。<br />
<br />
シートを開けたらシートの裏に”親愛なるジェームズ・ディーンへ　エルビス・プレスリー”と書かれており、プレスリーからジェームズ・ディーンへプレゼントされたものとわかった為オークションに出展したところ、およそ1億2千万円の値がついた。 出典：フリー百科事典『ウィキペディア（Wikipedia）』<br />
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